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安城で童話の名作を書いた

新 美 南 吉




新美南吉は、愛知県半田市の出身である。昭和13年(1938)4月より、安城高等女学校に奉職し、昭和18年(1943)2月に退職するまで、この地に在職在住(4年間新田町に下宿)した童話作家であった。年齢は25才から30才の間で、この5年間に、彼の主要作品のほとんどが書かれている。昭和16年(1941)10月には「良寛物語・毛毬と鉢の子」を出し、翌年10月には、最初の童話集「おじいさんのランプ」が出版されている。

昭和13年(1938)4月4日、東京外国語学校卒業後2年間のブランクの後、安城高等女学校へ赴任する。長身なうえ、眉毛が太く、理知的な顔立ちをした文学青年であった。さっそく1年生の担任となり、英語(全学年)と1、2年の国語を担当する。そしてたちまち、女学生の話題の人となる。生徒に日記を書かせ、それを丹念に読んで評を書くなど、教師としても信頼されていく。この頃、詩を書き出すとともに、生徒にも詩を書かせ、翌14年(1939)2月には第一詩集「雪とひばり」をガリ版印刷している。ザラ紙四分の一の大きさで、以後、毎月出し第六集で終わっている。この第一詩集の序が
  生れいでて 舞ふ蝸牛の 触角のごと
しづくの音に 驚かむ
風の光に ほめくべし
花も匂はゞ 醉ひしれむ
である。この詩は昭和23年(1948)11月20日に、教え子らによって女学校講堂の北入口の窓下に詩碑として建てられる南吉としては、第一番目の文学碑である。(現在は安城高校とともに移転)健康を取り戻した南吉は、友人の斡旋で「ハルピン日々新聞」へ小説や童話を寄稿する。この時期「最後の胡弓ひき」や「久助君の話」が書かれている。

昭和14年(1939)1月25日に校長から「職員は学校の付近に居住すべし」という話があり、例外は認められないとのことで、3か月に及ぶ南吉の下宿探しが始まる。4月、学校より約1.5キロ隔っている安城新田(新田町)に部屋を見つけ、そこへ移り住むことになる。部屋は長屋門の一室で八畳一間、床の間と押し入れがついており、二方は廊下になっていた。下宿代は電燈代を含め2円90銭であった。食事は、安城駅前の「川本」という食堂でとり、1か月4円~5円程度支払っている。入浴はもっぱら学校(宿直用)ですませ、下宿の風呂にはほとんどはいらなかったようである。洗濯物は岩滑の実家へ持ち帰っていたらしい。

学級担任は、4年間持ち上がりであった。それだけに教え子らの南吉への思慕は格別のものがあった。昭和16年(1941)1月から「良寛物語」を書きはじめ、10月に「手毬と鉢の子」と題して出版する。部数2万部、印税が1300円入り、父親を喜ばしたという。さらに、引き続き、明治用水の功労者「都築弥厚」伝を執筆しようとし、9月、岡田庄太郎、山口英信から聞き取りをするも、折り悪く肝臓が悪化し、ついに断念する。この時のメモは「古安城聞書」として残されている。この間、結婚話もあったがまとまらなかった。

翌17年(1942)1月血尿が出る。彼は「小さな四角な紙の世界、なつかしい文学の世界。そこに遊んでいるとき、わずかに死のことを忘れえた。死のことを忘れるために、小説を読む。しかし、すっかり忘れてしまわないように、ときどき、死すべきものぞと自分にいいきかせる」と日記に書きながら、3月には「ごんごろ鐘」を、4月「おじいさんのランプ」につづいて8月までに、「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」「百姓の足坊さんの足」「和太郎さんと牛」「鳥山鳥右エ門」と、代表作を一気に書き上げる。何が彼をかりたてたのであろうか。文学への情熱としかいいようがない気迫である。

翌18年(1943)1月には、岩滑の実家に帰り、離れ屋の二階の一室で療養生活に入る。もうこの時期、学校は休暇をとっていた。彼は死力をふるって「狐」「かぶと虫」「いぼ」を書き、「天狗」は未刊のまま絶筆となった。2月女学校を退職。3月22日に没する。30才であった。その年の9月に、2冊の童話集「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」が出版されが、彼はそれを手に取ることはできなかった。

前歴史博物館長 神 谷 素 光 氏 (広報あんじょう 56.12.1 より)


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