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南吉の安城高女赴任前後のこと1




新美南吉(本名正八)は昭和13年4月から、愛知県立安城高等女学校の教師となった。この動機は、彼の中学時代(旧制半田中学校)の恩師であり、当時安城高女の校長でもあった佐治克己氏の力ぞえによるものでもあった。彼の日記(3月6日)によれば<佐治先生が、遠藤先生の宅に参られ、僕を呼んで、「今日やっと、県の方の話がついた。」といわれた。これでとうとう、話がきまったのである。>と記されている。東京外語学校を卒業して二年目にして念願の中等学校教員になることになった。日記には、なお続いて<下手な小説は、もう書けなくなった。一ついいことがあれば、一つ悪いことがあるものだ。が、むろん、後の方の不都合は何でもないことだ。「女学校の先生になれば、もうなんの恥ずかしい事があらあずに。いっぺん、女学校でも中学校でも先生になってくれれば、もう明日死んでもええと思っとっただ。」と、母はいった。父が、小心の父が、あまりの喜びで狂いださねばいいと、そんな心配をした。これでもう、体もあまり無茶はできぬ。洽・温・厚・卓>と書かれている。

南吉自身の心の高まりを如実にあらわした文である。(中略)就職はこのようにして決まったのであった。(中略)昭和11年3月に、東京外語学校を卒業して以来幾多の苦しみ(病気、貧困など)を経て喜びをかみしめたのであった。外語学校卒業と同時に中等学校教員になれなかったのは、在学中からだが弱く、軍事教練にあまり出席しなかったからだともいわれている。そのためか彼の免許状は昭和13年3月17日付の免許となっている。

安城高女就職以前の日記は3月15日で切れている。(中略)それでは、日記では知ることのできない赴任当時の模様については、どうであっただろうか。まず、当時安城高女で国語と図工の担当をしていた戸田紋平氏の話をはじめとして、教え子たちの回想などよりどころにして記してみたい。


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