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「安城の新美南吉」発刊に寄せて


「ごんぎつね」「おぢいさんのランプ」などの作品で知られる童話作家・新美南吉。彼は死の直前まで愛知県の安城高等女学校(現在の安城高校)で教師をしていた。その教え子たちもすでに70歳代。青年教師・南吉の生きた姿を記録にどどめようと、当時の教え子に思い出をアンケート調査し、画帖、写真、書簡などゆかりの品とともに、「安城の新美南吉」と題した資料集にまとめた。

生徒から見た南吉は、細身で長身、文学と音楽を好むモダンな先生だった。評価は死後高まったため、調査に答えた人の半数は在校中、新美先生が新美南吉であることを知らなかった。作家として大成するのを夢見ながら、病のために郷里へ戻り、治り切らぬ体をおして教師になった南吉。だが、転校した生徒にも心配りを見せるなど、教職に熱意を持って取り組んでいた姿がそこにはあった。
南吉は1913年(大正2年)、現在の愛知県半田市に生まれ、18歳で「ごんぎつね」を書いた。東京外国語学校(現・東京外大)英語部を卒業し、就職するが、喀血し帰郷。小康を得て小学校の臨時教員などを務めた後、安城高女に赴任し、43年に29歳で亡くなるまで約5年間、教壇に立った。学校の近くに下宿し教職の傍ら文学活動を再開。「花のき村と盗人たち」などの童話や、詩を精力的に創作した。安城高女勤務時代が作家としてもっとも脂ののった時期だった。

南吉は、教え子たちにとって心ときめく存在だった。戦争中で年配の教師が多く、若い南吉は目立ったのだろう。やせて背が高く、片方の肩を下げて大またに歩く。神経質そうでいかにも文学青年然とした風ぼう。「お熱を上げていた生徒がたくさんいた」そうだ。ある生徒は転校する数日前、南吉に呼ばれて会議室に行った。彼は「リルケ詩集」とジンチョウゲの小枝を渡しながら、「花は帰りに川に捨ててください」と言った。この言葉を生徒は「先生一流の照れ隠し」と解釈し、ジンチョウゲを家に持ち帰り、花が散り始めても飾っておいたという。「いつも背広のポケットに岩波文庫をしのばせていた」「黒板に自作の詩を書いていた」「先生の作品の浄書を手伝った」など、作家としての南吉に触れる機会を得た人たちもいる。
一方、「始業式の日に生徒全員の名前を覚えた」「英語の発音に厳しかった」「手紙を出すと必ず返事がきた」など、熱心な教師像も浮かぶ。学科では英語、国語、作文を習った人が多い。作文については「美辞麗句を嫌い、平易でわかりやすい文章を好んだ」という。人気者ゆえか「音楽の先生と仲が良かった」と生徒の興味をそそった面もあったようだ。また死の前年のころの生徒は「弱々しい印象だった」と感じていた。中には「怖い」「厳しい」などの記憶を持つ人もあった。もっとも60年も前のこと、当たり前だが、記憶違いなどの可能性も考慮しなければならないだろう。
生徒たちとは書簡のやりとりも頻繁だった。その多くは半田市の新美南吉記念館に寄贈・保存されているが、今回の調査で初めて公開された葉書が一通ある。
「やさしいこゝろのこもったお見舞い状をありがたう読んでわたしの心があたゝめられるやうな気がしました」
20歳代とはおもえない老成した字で、身体を案じてくれた生徒への感謝をつづっている。

調査は安城市の読書グループ「新美南吉に親しむ会」が行った。77年に発足し、作品を読んで南吉を深く知ろうと勉強している。アンケートは、南吉が在籍していた時期に同校で学んだ16回生から24回生までの531人を調査対象にした。4年間担任を務め、南吉と接する機会の多かった19回生の調査は過去に行われたこともあったが、教え子全員を対象にしたのは初めて。同窓会名簿を頼りにアンケートを送り、4割近くの回答があった。その後、30人ほどに直接会って話を聞いた。南吉の書いた通知表、評言の入った作文帳などを寄贈してくれた人たちもいた。私としては、所在不明になっている南吉直筆の画帖を見つけられなかったことは心残りだった。

20数年前、図書館でふと手にした全集で南吉の日記を読み、これがきっかけで私は南吉に関心をもつようになった。他人に対する好き嫌い、我が才能への自負と悲観、世間へ向けた批判と好奇心など、己の性質、感情をありのまま書き残した日記に、私は深い共感と言い知れぬ親しみを覚えるのである。南吉作品は今またブームになっている。後世まで南吉の作品と足跡を伝えていきたいものだと思う。

神谷昭平(新美南吉に親しむ会会長)平成11年11月

サルビー