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更新日:2018年2月16日

新編安城市史5資料編「古代・中世」

 解説   はじめに / あとがき

 《章解説》  本編 伝承 / 奈良時代以前 / 奈良時代 / 平安時代 / 鎌倉時代 / 南北朝時代 / 室町時代 / 戦国織豊時代

        別編 木簡 / 墨書土器 / 寛永年間までの市内所在資料 / 志貴荘関連資料 / 三河国司一覧 / 三河国関係紀行文一覧 

  

 はじめに

 古代中世部会長  西 宮 秀 紀 
 

 最初に、本巻を編さんするにあたっての基本方針を記しておきたい。「古代・中世編」ということであるが、時代区分については、古代・中世という大きな時代区分を採用しなかった。その理由の一つは、古代・ 中世という時代区分の境界がいつであるのか、研究者によって意見がわかれており統一しづらいこと、二つは市民向けには奈良時代や鎌倉時代など、政権が存在した場所による時代区分の方がわかりやすいという意見が寄せられたこと、である。したがって、奈良時代以前・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・南北朝時代・ 室町時代・戦国織豊時代と区分した。
  本編は、上のような時代順に編年体で構成した。ただ奈良時代以前の中で、編年になじまない五世紀以前の資料は伝承として別立てにした。また市民の利用の便宜や資料の性格を考え、(1)木簡・(2)墨書土器・(3)寛永年間までの市内所在資料・(4)志貴荘関連資料・(5)三河国司一覧・(6)三河国関係紀行文一覧を別編とした。
 従来の三河地方の自治体史では、資料のみを収録したものが多い。市民にとっての使い易さを考えると、 資料だけではなく少なくとも綱文・読み下し・注は必要となろう。市民が使用する場合、この資料編からどの位の情報を得られるか、という疑問に答えるため、まず、各時代区分の扉裏に採録した史料・資料の概要を手引きとして記した。また個々の史料・資料の性格については、初見史料・資料のところの解説に詳しく記した。さらに巻末には、各史料・資料の出典一覧を付した。これらを手がかりに、個々の史料・資料について、さらに深く情報を追求することが可能になると思われる。

  次に、本巻の採録方法や基準について、基本的な考え方について述べておきたい。
  まず、安城市域と平安時代までの史料・資料との関係について、簡単に解説しておこう。なお、古代史では、史料という用語は紙に書かれたもの、資料という用語はそれ以外のものに書かれたものに対して使用する場合が多い。
  さて、安城市域に関わる地元で発見されたこの時期の資料は、現在のところ木簡が一点と数十点の墨書土器の文字資料が知られているに過ぎない(別編に収録)。これらの資料は大変貴重なものであるが、点数が少なく、また文字からの情報量も極めて限られている。
  したがって、残念ながらおのずと当時朝廷で編さんされた史料、及び都で出土した文字資料の中から、安城市域が属していた碧海郡の史料・資料を探さざるをえなかった。 ところが、この時期の碧海郡に関わる史料・資料自体も、朝廷の記録等に現れることが多いとは言えない。 例えば碧海郡という地名、あるいは出身の人物や郡司、そして駅家などのほかは極めて限られてしまう。こ れは朝廷が歴史書・法律を編さんしたため、中央(都)と関わる地方記事あるいは条文・式文しか採録していないこと、奈良の正倉院など特別なところに文書などが残ったこと、平城宮などから出土する木簡も貢進の荷札などが主であること、などが原因である。これは日本の地域史を探ろうとする場合、どの地域でもぶつかる壁である。つまり碧海郡の史料・資料がもともと少なかったのではなく、歴史の記録のされ方、あるいは史料・資料の残り方の問題なのである。
  そこで、間接的ではあるが、碧海郡が属した三河国・東海道・東国などの記事の中から、碧海郡の当時の住民が関わった、あるいは関わらざるをえなかったと思われる史料・資料を選び出した。また、矢作川に関する史料や碧海郡と関わると思われる犬頭糸記事も、関係が深いので採録した。したがって三河国に関する史料でも、碧海郡とは関係しないものや明確に他郡と関わるものは、採録しなかった。その理由で国司記事も一部を除いて採録していないが、その欠を補うため、巻末に三河国司一覧を載せておいた。

  次に、安城市域と鎌倉時代から戦国織豊時代までの史料・資料との関係について、述べておきたい。
  これらの時代でも、史料といった場合には、文字として書き残された文献を指して呼ぶことになる。近年は考古学的な発掘などが日本各地で進み、文字で記された史料とは異なった種類の資料も増大しているが、 安城市史という枠組みに限定するならば、まだまだ多くはない墨書土器や僅かな金石文に限られており、やはり史料中心で考えざるを得ない。そのような安城市域関係の史料の特徴を、平安時代までの史料の場合と比較してみると、何よりもより市域に密着した史料の点数が増大していることである。つまり市域周辺で作成されたり、市域のことを具体的に記した古文書などの史料が多くなってくるのである。
  逆に言うと、平安時代までのように東国や三河国という大きな枠組みを設定すると、史料が多すぎて収録は不可能になってしまう。その点、おのずと平安時代までとは異なった採録基準を設定せざるを得なかった。 一口で言うなら、安城市域に関わる史料を中心に、広くとって碧海郡までの範囲とし、例外的に碧海郡とも関わる重要な三河国の関連史料も採録する、という基準である。
  とはいえ、その基準がすべてに一貫しているわけではない。鎌倉時代・南北朝時代・室町時代・戦国織豊時代などの時代ごとに、安城市域に関わる史料の残り方が違っているのである。たとえば鎌倉時代であれば 市域に直接関わる史料はまださほど大量ではないが、室町時代の後半から戦国時代になってくると、その点数は途端に多くなる。とくに、安城に関係する松平氏の史料は、本市史の重要テーマでもあるため多く採録した。したがって、鎌倉時代では三河国や、碧海郡の周辺の地域にまで目を向けていたのが、時代が下るにつれ、より安城市域に密接した史料所在や、内容の史料中心へと推移してゆくことが、どうしても求められる。これは一見すると採録基準が一定していないように思われるかもしれないが、むしろ時代の変化による史料残存状況の推移に対応した柔軟な措置である。

  史料・資料の採録にあたり、市内所在のものについては、所蔵者の協力を得て可能な限り調査成果を収めた。それ以外の史料・資料の採録や解説については、現在刊行されている『愛知県史 資料編6 古代1』 『愛知県史 資料編8 中世1』などを参照した点も多い。読み下し・注・解説については、基本的に信頼できる刊本・史料集や訳注書・注釈書に負うところが少なくない。また、『新編岡崎市史』『刈谷市史』『西尾市史』など、これまで編さんされた近在の自治体史及び各種の日本史辞典や地名辞典類、さらに、『安城の地名』(安城市教育委員会)にも恩恵を蒙ったことを附記しておきたい。


  平成十六年五月

  

 あとがき 

 古代・中世部会編集委員  松 島 周 一
 

 平成九年度に安城市史編さん事業がはじまって以来、古代・中世部会では、各委員と事務局が共同して、 刊行された多くの資料集を精査するとともに、市内はもちろん、広く愛知県内・県外の史料収蔵者をお訪ねして調査を重ね、史料を収集してきた。また、それと並行してどのような資料編を作り、市民の方々にお届けするのかについて討議を重ねてきた。その際に常に意識されたのは、市民の方々にとって、どのような形態のものが最先端の研究成果をより理解しやすく、またさまざまな学習の場で活用しやすいのか、という点であった。そうした視点からすれば、まず綱文を作成した上での編年という枠組みを設定し、多少は煩わしくとも読み下しや注、解説などを各史料に付していくことが必要である、という方向でやがて議論がまとまったのは、ある意味で自然なことであった。
  ただ、この方針は同時に各委員と事務局に対して膨大かつ煩瑣な作業を強いることにもなった。ページ数との関係もあり、必要な史料とその引用部分の選定からはじまって、どの程度の注がもっとも望ましいのか、 どのような質と量が解説に求められるのか、執筆にあたる各委員とその調整にあたる事務局の苦労は半端なものではなかったと思う。しかし、幸いにも古代・中世部会はごく身近な範囲に、ちょうど日本史の各時代を最前線で研究している、中堅・若手の委員たちを確保することができた。その委員たちが、それぞれ熱意をこめて困難な編さん作業に尽力してくれたのは、ひとえに安城が持っている歴史への、深い愛情と敬意があったゆえであることも言い添えておかねばならない。

  本巻では、委員の専門とする時代に応じて、おおよそ以下のような担当範囲を設定した。すなわち、伝承 の部分から奈良時代までは西宮、平安時代は西宮・安原・松島、鎌倉時代は松島、南北朝時代は松薗・松島、 室町時代は松薗・村岡・水野、戦国織豊時代は村岡・水野・安藤である。また、別編の木簡は西宮・池本正明(考古部会)が、墨書土器は池本(同上)が、寛永年間までの市内所在史料と志貴荘関連史料は村岡が、 三河国司一覧は安原・松島が、三河関係紀行文一覧は松薗が担当した。ただし、本来は他の委員が扱う時代に含まれている史料を、各委員が必要に応じて担当した場合も少なからずあった。また、相互の記述を調整するためにも各委員同士で多くの意見交換が行われており、担当範囲といってもあくまで一応の目安である。 なお、監修の新行紀一先生からも多くの御意見を頂戴した。
  綱文・注・解説の中身については、以上の検討及び現在の研究状況を踏まえ、広く目配りしつつ執筆したつもりである。どうかさまざまな御意見・御批判を寄せていただきたい。この一冊を新たな安城・西三河史研究への踏み台としていただくことが、本巻執筆者にとって、何よりも嬉しく望ましいことである。
  編さん作業の中で多くのご理解とご協力を賜った史料所蔵者の方々、東京大学史料編纂所をはじめとする 史料収蔵・研究機関、調査協力員の方々に御礼を申し上げる。また、多くの困難の中で委員たちを助け、本巻の完成へと導いてくれた事務局の方々に、心から感謝したい。


   平成十六年五月

 

《章解説》本編

  
 伝承  

 奈良時代以前の歴史については、『古事記』『日本書紀』(以下、記紀と記す)が基本となる史料である。 『古事記』は神代(神話)から推古天皇まで、『日本書紀』は神代(神話)から持続天皇まで、両書とも神武天皇から天皇ごとにおおむね編年体で記されており、奈良時代の前半(『古事記』は和銅五年〈七一二〉、『日本書紀』は養老四年〈七二〇〉)に編さんされたものである。
 いわゆる記紀神話の部分は、伝承であり史実と見なせないことは言うまでもないが、神武天皇から始まる古い天皇の編年部分も伝承的な話が多く、全て史実として受け取ることはできない。天皇(大王)にしても、 現段階では埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘からワカタケル大王(雄略天皇)の実在が想定できる位であり、 それ以前の天皇(大王)についてはまだまだ未知の部分が多い。記紀の編さんのもととなった帝紀・旧辞の 研究を行った津田左右吉の研究により、安閑から欽明朝あたりに最初の編さんがなされたと考えられているところから、そのあたりを伝承部と編年部の境とするのが穏当であろう。編集方針で述べた基準で採録した碧海郡関係の古代史料としては、残念ながら仁徳天皇から崇峻天皇までの間の史料が無いため、その間で伝承部と編年部(奈良時代以前)を区分した。
 さて、伝承部では、他に『先代旧事本紀』や『新撰姓氏録』が重要である。前者は、記紀にない三河国関係の氏族伝承や国造に関する独自記事があるが、平安時代初期に成立したと考えられ、成立が遅れるので参考史料とした。また、後者も同じく平安時代初期に編さんされているが、氏族(伝承)史料として重要である。さらに、室町時代に撰進され増補が行われた皇室系図である「本朝皇胤紹運録」にも、関係氏族がみえ るので参考とし採録した。

     

 奈良時代以前

 本章には、崇峻天皇二年七月壬辰条から慶雲三年閏一月五日条までの記事が採録してある。いわゆる飛鳥時代という時代区分に当てはまるが、一般に飛鳥時代というのは崇峻天皇五年(五九二)の推古天皇の豊浦宮即位から平城京遷都の和銅三年(七一〇)までをさしており、編年部の初例となる崇峻天皇二年記事が含まれないこと、近年ではあまり使われないことなどから、本書ではとりあえず奈良時代以前とした。
 この時代は、編年体の六国史の最初の『日本書紀』と二番目の『続日本紀』記事が中心である。『日本書紀』については前章で少し記したが、六世紀に入ってからすべて史実が記録されているかどうかは、やはり史料批判する必要がある。有名な大化改新詔については、詔の文の用語が大宝令文と同じであるので論争が行われてきた。例えば大化改新詔には、地方行政区分として「郡」の字が記されているが、当時の金石文などには「評」の字が使われており、本当は「評」ではないかという疑問が出された。論争が行われていたが、 藤原宮から出土した木簡により、大宝元年まで、つまり大宝令施行までは「評」字を使用していたことが明らかになった。また、『日本書紀』の飛鳥浄御原令時代の官制表記についても、藤原宮木簡によって訂正せざるをえない部分が出てきている。例えば「国司」という表記も「国宰」であったことがわかってきた。これらのことから、文字表記や記事自体についても注意して読む必要がある。
 一方、『続日本紀』は文武天皇から桓武天皇までの歴史を編年体で記したもので、延暦十六年(七九七)に完成したものである。ただ全四〇巻のうち、前半の二〇巻は光仁朝に淳仁朝の曹案をもとに奏進したことがわかっており、そうすると八世紀の中頃には出来上がっていたことになる。このような理由で『日本書紀』 と異なり、ほぼ史実として信頼できるものである。本章には元明天皇の平城京遷都までの史料を収めた。

  
 奈良時代

 奈良時代(和銅三年〈七一〇〉~延暦三年〈七八四〉)は、前章でも触れた『続日本紀』が基本史料であり、碧海郡に関わる三河国や東海道などの史料を多数採録した。
 奈良時代には国家法として大宝令(大宝元年〈七〇一〉施行)・養老令(天平宝字元年〈七五七〉施行)が編さんされた(その史料は『令義解』『令集解』として本章・次章に採録)が、令の不備を補うものとし て臨時法令が出された。その中の太政官符などは、後に『類聚三代格』『類聚符宣抄』に収められた。『類聚三代格』は弘仁・貞観・延喜の三代の格を併せて編集したもので、一一世紀に編さんされたものである。一 方、『類聚符宣抄』は、一一世紀末か一二世紀初め頃に成立したと考えられている。また、国司の交替に関る法令などは、延暦二十二年(八○三)に完成した『延暦交替式』などに収められている。
 当時の生の史料として、東大寺の正倉院に残された正倉院文書があり、不要となった戸籍・計帳・正税帳 などの裏に、造東大寺司写経所などで行われた写経事業関係の帳簿・文書に転用されたものが中心である。 残念ながら三河国関係の戸籍などは残っていないが、写経関係文書などに三河国関係の記載が残っている。 また、変わったところでは彩色のための丹(赤い顔料)を包んでいた紙に、反故になった貢進歴名帳が転用されており(丹裹文書と呼ばれている)、そこに三河国碧海郡関係の人物史料などが偶然残されていた。
 『万葉集』は、奈良時代に編さんされた最古の歌集で、歌の中に三河国関係の地名と思われるものがあるので採録した。また、平安時代初期に編さんされた『新撰姓氏録』にも、碧海郡関係氏族の関連史料があり、 他に平安時代の平信範の日記である『兵範記』にも、奈良時代の三河国関係記事が記録されているので採録した。なお、木簡・墨書土器に関しては別編を参照されたい。

   

 平安時代

 本章の時代区分である平安時代の始まりも諸説あるが、ここでは長岡京遷都の延暦三年(七八四)からとし、終わりについては鎌倉時代の扉裏の時代解説を参照されたい。
 平安時代前半の史料でまず採り上げたいのは、六国史の『続日本紀』に続く『日本後紀』(延暦十一年 〈七九二〉~天長十年〈八三三〉、承和七年完成)・『続日本後紀』(天長十年〈八三三〉~嘉祥三年〈八五〇〉、貞観十一年〈八六九〉完成)・『日本文徳天皇実録』(嘉祥三年〈八五〇〉~天安二年〈八五八〉、元慶 三年〈八七九〉完成)・『日本三代実録』(天安二年〈八五八〉~仁和三年〈八八七〉、延喜元年〈九〇一〉 完成)である。このうち『日本後紀』は四分の一しか現存していないので、菅原道真が編さんした『類聚国史』(寛平四年〈八九二〉一度成立、増補あり)や、平安時代後期に成立した歴史書である『日本紀略』で補わなければならない。以上の史料から、碧海郡に関わる三河国や東海道などの史料を採録した。
 また、養老令の注釈書として『令義解』(天長十年〈八三三〉完成、承和元年〈八三四〉施行)『令集解』 (九世紀半ばの成立)が編さんされている。前者は政府編さんの公式注釈書であり、後者は私撰の注釈書である。後者は奈良時代から平安時代にかけての明法家の説を集大成しており、引用された古記などで大宝令が復元される。また、臨時の官符などは前章に記した『類聚三代格』の他、平安時代中期に成立した故実書である『政事要略』や、在京諸司や国司の交替に関わる法令を編集した『延喜交替式』(延喜二十一年〈九二一完成)などに収録されており、三河国の社会状況などについて知ることができる。
 とくに延長五年(九二七)に完成し、康保四年(九六七)に施行された『延喜式』は、律令の施行細則であるだけに三河国に関する細かな規定がされている。神名上には碧海郡の神社名(式内社と呼んでいる)が 記されており、参考史料として猿投神社所蔵本「三河国内神名帳」を採録した。これも碧海郡のある時期の神社名を知ることの出来る史料であるが、最古の写本であるにもかかわらず一七世紀のものであり、いつまで遡るかなど問題が残されている。なお、『延喜式』はそれ以前の『弘仁式』『貞観式』を集大成したものである。その逸文が残されており、『延喜式』と比較することにより時代差による改訂の跡を窺うことができ る。また、三河国の絹や大頭糸関係史料として、平安時代中期の諸儀式をまとめた『九条年中行事』や、一 〇世紀成立の儀式書である『西宮記』、平安時代後期の説話集である『今昔物語』も参考史料として収めた。
 また、承平年間(九三一~九三八)成立の百科全書である『和名類聚抄』から、三河国・碧海郡・駅など の記事を採録した。これは当時の全国の国郡郷名を記載した基本史料である。大東急記念文庫蔵本・天理図書館蔵本・名古屋市立博物館蔵本など写本によって異なる点があるので、全て収めた。これに関連して、平安時代前期成立で八世紀前半の状況を伝える部分もあると言われる「古律書残篇」、一二世紀成立の辞書である『色葉字類抄』三巻本、鎌倉時代初期成立の辞書である『伊呂波字類抄』十巻本、鎌倉時代中期に原形が成立したと言われている百科事典的有職書である『拾芥抄』、また、天治元年(一一二四)頃までの成立とされる百科全書的覚書である『掌中歴』、成立年代は不明であるが文明九年(一四七七)頃の写本が残っている国語辞書である『世俗字類抄』、建久年間(一一九〇~一一九九)の末期に成立し、その後文安年間 (一四四四~一四四九)まで増補された人文関係の百科である『二中歴』、平安時代末期の成立であるが、部分的に南北朝期頃の書き継ぎがみられる公家の日常生活のための一種の備要録である『簾中抄』などを一括し参考史料として収めた。
 また、最澄が弘仁年間(八一○~八二四)に著したといわれる「長講法華経後文略願文」や、雅楽の声楽 の一種である『催馬楽』の関係史料も収めた。
 さて、国史が『日本三代実録』以降編さんされなくなった後、平安時代後半になると、主要な史料は貴族の日記ということになる。彼らが直接に安城市域もしくは三河の現地にいて、何らかの見聞をしているという例はほとんどない。しかし、京都にいても、三河一国単位、もしくは荘園単位などで賦課する物品については、彼らもかなりの関心を寄せ、それについての情報を日記に書き残すことがあったのである。それは間接的にではあっても、当時の三河や碧海郡、市域についての歴史像をわれわれに伝えてくれるものであろう。 とくに大頭糸については彼らの関心も深かったらしく、三河の生糸や絹に言及することが少なくなかった。 ここでは『権記』からはじまって『御堂関白記』『小右記』『範国記』『後二条師通記』『中右記』『山槐記』『兵範記』などからそうした記事を引用した。もちろんそれ以外の日記からも三河関係の重要と思われる記事を選び出している。さらに、市域の歴史にとって重要な志貴荘に関わる情報が、『兵範記』など京都側の史料にあらわれてくるのもこの頃である。一方、現地の独自の史料は質量ともに乏しい。その中で、たとえば『滝山寺縁起』は後世の編さん記録であっても、貴重な史料であり、あるいは紙背文書という形でたまたま残された志貴荘住人等解なども重視さるべきものといえよう。これらの断片的な記述を整理しつつ、少しでも三河国・碧海郡・安城市域の平安時代像を豊かにしていくことがこれからの市史研究の課題である。こ こに示すのは、そのための第一歩である。

    

 鎌倉時代
 まず、本章ではどのような基準で鎌倉時代を区分しているかを述べたい。見られるように、ここでは治承五年(一一八一)初頭の史料からを鎌倉時代の中に含めた構成をとっている。鎌倉時代のはじめが何時からかという問題は、日本史全体からみれば、鎌倉幕府の成立をどうとらえるかという認識と連動するものである。 そこには治承四年(一一八〇)、寿永二年(一一八三)、文治元年(一一八五)、建久元年(一一九〇)、建久三 年(一一九二)など、論者の歴史認識とむすびついた様々な考えがあり得るだろう。ただ、安城市域の歴史をたどるという市史の趣旨からすれば、この地域を含む三河の歴史上で、平安時代からの転換点をどのように理解すべきかという視点も必要であると思う。その場合、それまでの秩序が崩壊し、三河が新たな時代のうねりに巻き込まれていったのは、やはり治承四年の源頼朝の挙兵から富士川の合戦、源氏勢力の浸透などがつづいた治承四年秋以降の段階であろう。そのため、ここではあえて、それ以降の初出史料である治承五年初頭のものからを鎌倉時代の枠内に入れる形としたのである。こうした編者の考え方が妥当かどうかは読者の判断に委ねるしかない。なお、鎌倉時代の終わりについては、常識的に、正慶二年・元弘三年(一三三 三)五月の鎌倉幕府滅亡で区切っている。
 さて、日本史研究全般を見渡せば、鎌倉時代の主な史料のあり方として、日記をはじめとする貴族社会の諸記録に加え、武家社会のさまざまな種類の文書が質量ともに増大していることがただちに指摘される。安城市域に関わる史料についても、その傾向は同じである。
 ここでも何度か引用する藤原兼実(彼は当時の貴族社会では最高位の家柄に生まれ、要職についていたので、多くの情報が集まっていたのである)の『玉葉』をはじめとして、京都の貴族社会に残された日記などの史料については、平安時代の説明でも触れられているので、一般的なことはここでは繰り返さない。ただ、 一点だけ指摘しておくと、中世といわれる時代の中でも、この時期はまだ、三河国(などの地方社会)に関する問題に貴族たちが比較的高い関心を払っていた段階であったように思われる。それは、京都の中央政府もしくは荘園領主や分国主などから三河国に対して行われていた支配が、まだ実効性を持っていた時代背景の中で生じる関心であろう。そうした現実的なつながりが失われるにつれ、貴族社会から三河国に関する情報が失われていくことになるのであろう。
 なお、ここでは近衛家(当時の貴族社会において最高の家格のひとつである)やそれに関係する新陽明門院の所領、また昭慶門院領などをまとめたそれぞれの所領目録も引いている。この時期の貴族社会にしばしば現れるこうした所領目録という史料は、天皇家や貴族の「家」研究の上で重要な史料であるが、地方の視点から見ると、どの土地がどのような領有関係の中にあったかを探る手掛かりになる点が貴重であろう。 地域に関わる武家文書としては、まず、幕府などの上級権力が、配下の武士を地頭職などに任命するものがある。鎌倉時代、そうした任命は下文という、将軍やその役所からの命令の形式で発令された。地頭はある地域の治安維持に当たる役職であり、それに付属する収入をその土地から得ることができた。その役職は、 収入とともに子孫に相伝され(その際に、譲渡の証拠として譲状が作成された)、その家の財政を支えたのである。そうした家の基盤に関わる大切な書類であるから、万一の時の証拠として、多くの武家が代々の関係文書をまとめて保管していたのである。重原荘関係の二階堂文書なども、そうした経緯で伝わったもので あろう。
 次に、『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂した「自分史」である。これは幕府中心の編纂物であるから、必ずしも地方史の側からは使いやすいものではないかもしれない。ただ、その中には断片的にではあるが、三河史の手掛かりとなる記述もあり、ここでも引用した。
 その他、『滝山寺縁起』や『三河念仏相承日記』など、この地域独自の重要な史料もある。さらに、地元の寺社に残された古文書が地域の歴史の具体像を語ってくれるようになるのも、この時代の大きな特徴であろう。ここでも、そうした史料を何点か引用させていただいた。
 なお、中世の歴史を語る上で欠かせないのが、軍記物語である。三河においても、それは同様であるし、 『平家物語』や『承久記』からの引用もある。ただ、この分野については、次の南北朝時代のところであわせて述べるようにしたい。
 最後にもう一点、付け加えておくと、伊勢神宮や熊野大社などと関連する史料が、この時代や、次の南北朝時代には三河国にしばしばあらわれる。今日のわれわれの感覚では、陸づたいに来るから遠回りな関係のように見えるかもしれないが、中世の三河や尾張は海にむかって開かれた地域であった。海上交通を通して、 三河はより広い世界との関係を持ち得ていたのである。歴史を振り返るとは、そうした現代では忘れられた感覚に触れてゆこうとする努力であるのかもしれない。  
 このように、中世前期、鎌倉時代の三河と安城市域の歴史は、まだまだ不十分ではあるが、しかしそれな りに豊かな史料によって垣間見ることができるのである。ここでは、以上のさまざまな史料を組み合わせつつ、その時代における安城市域周辺の歴史をより鮮明に捉えようと試みた。 

  

 南北朝時代

  本章では、正慶二年・元弘三年(一三三三)五月の六波羅探題・鎌倉幕府の相次ぐ滅亡を区切りとして、南北朝時代とした。数年間の建武政府の時期はあるが、それは独立させずにまとめてある。一応、明徳三年・ 元中九年(一三九二)閏十月の南北朝合一までをこの範囲に入れてある。
 この時代の三河や安城市域に関わる史料状況は、貴族社会の記録や文書では、洞院公賢の日記である『園太暦』に多少の関連記事もあり、また志貴荘に関連する近衛基嗣の建楞伽禅寺私記などもあるが、時代の混乱を反映してか、全体にその数は多くない。武家関係では、室町幕府の発給文書があらわれている。さらに、 戦争に参加した武士が、自分の功績を指揮官に認めてもらうために提出した申告書である軍忠状も散見される。
 ここで軍記物語について一言する。戦争や政治、そのほか背景となる時代の諸相を描いた文学作品の中の 一ジャンルである。文学作品であると同時に、記録的な側面も有していたため、その記述が歴史研究の素材とされることも多い。もちろん、その場合には、慎重な取り扱いが必要なのであるが。三河国はちょうど日本の東西のはざまにあって、中世の前期には、いろいろな勢力の衝突が繰り返された土地でもある。また、 矢作川は東西交通の要所でもあり、なおさら諸勢力の動向が錯綜する地点となっていた。そのため、鎌倉時代の『平家物語』や、この時代の『太平記』などの著名な軍記物語にも、この地域での戦闘についての記述が散見されるのである。
 そのほか、大般若経の奥書も地域の歴史を考える上で重要な史料である。さらに、浄土真宗の僧である存覚の『袖日記』や時宗の「大浜道場建立次第」、五山文学の中の『空華集』など、多様な史料から、この時代の安城の歴史をたどる構成となっている。

  

 室町時代

 室町時代の関係史料を一覧した時、一五世紀の半ば以前と以後ではその様相が大きく異なることにまず気づくであろう。一五世紀以前の安城市域については、法輪寺や金蓮寺・上宮寺などの県内所在の寺院に所蔵される『大般若経』の奥書類や浄土真宗関係の史料がわずかに見出されるにすぎない。ほとんどが、京都及びその近辺の寺院のもの、とくに真言宗、臨済宗など公家・幕府に関係する権門寺院が多く、かつ所領の伝領を問題とする内容が主で、在地の状況に関する情報は乏しい。また『建内記』や『大乗院寺社雑事記』など京都・奈良に在住した公家・僧侶の日記からいまだこの地域の情報が多く知られるのは、この時期、中央の権門の支配がまだ強く及んでいた状況を反映していると考えるべきであろう。この地域に関わっていた権門はかなり多様であり、幕府・将軍家をめぐる政治状況を色濃く反映して、この地域の支配関係がかなり錯綜していたことがうかがえよう。
 一方、応仁の乱が起きる一五世紀半ば頃から、これら権門関係の史料は姿を消していき、この地域独自の史料的特色が顕在化する。蓮如の活動を一つのきっかけに活発化する一向宗関係の史料や、京都の権門との関係を強く持ちながら、在地での活動を活発化させていく松平氏関係の史料が多く出現し始め、地域の寺院 が所蔵する文書も格段に多くなり、これ以後のこの地域の歴史的特色を規定していくことになる。それらに関わる田地の寄進や相伝関係の史料などから、地名・人名も含め在地の状況がかなり具体的に知ることができるようになるのも、この時期の特色であろう。

    

  戦国織豊時代

 本章に戦国織豊時代として収めるのは、一六世紀の始まりから天正十八年(一五九〇)八月までの史料である。一四八〇年代に安城に進出した松平氏は、親忠(西忠)の一族として市域を基盤に、岩津家を宗家とする松平一族のなかでも有力な一庶家として成長し始める。文亀元年(一五〇一)八月、西忠の死に際し、 安城家以外の松平一族の者が安城家の菩提寺である大樹寺の警固を誓って連署したことは、その後、安城家が松平一族の宗家の地位を奪取していった過程を思うと、その萌芽的動きを示す出来事と位置付けることができる。一方、下限を天正十八年八月としたのは、この時徳川家康の関東移封がおこなわれ、松平(徳川)領としての市域の歴史に区切りがつけられたからである。もとより、この間には天文九年(一五四〇)から 同十八年に至る織田氏の統治、続いては永禄三年(一五六〇)桶狭間の戦いに至るまでの今川氏の統治があり、市域の歴史は松平氏の統治のみによって規定されるものではない。しかし、西三河地域史をこの期間で区切ることは、三河中世史研究に大きな前進をもたらした『新編岡崎市史 中世』でも用いられているところであり、こんにち一応の通説といってよい。ここに収めるのは、この間九〇年間の市域の様子をうかがうにたる史料である。
 収めたのは、市域の地名や市域を拠点とした人物に関する史料、市域に所在した寺社に関する史料が中心である。市域の歴史をこれらの史料のみで語ることはできず、日本全体の動向や周辺地域の動きが市域の歴史に連動しているのは明らかで、少なくとも西三河全体を視野に入れなくてはならない。読者において、周辺市町村等の自治体史資料編があわせて用いられることを前提とした。
 市域の地名関係史料としてここに収めたおもなものは、大樹寺文書・妙源寺文書などのうちの寄進状、土地売券である。市域を拠点とした人物の史料として最も多く収めたのは、いわゆる安城四代(親忠・長忠・ 信忠・清康)のうち前三代と、市域を拠点としつつ一時松平氏惣領の地位についた松平(桜井)信定、およびその家老堀重政(道清)関係の史料である。彼らは生涯にわたって市域を拠点としていたわけではない。 とりわけ隠居後は市域外に居住したことが明らかな場合もあるが、その時期のものを含めて彼らの発給した文書は、市域外に充てたものであってもすべて収めるのを原則とした。松平清康発給文書については、彼が岡崎(明大寺)に進出する以前の安城在城時代を対象としたが、この時期の確かな文書は伝わっておらず、 結果的に収めていない。岡崎進出以降の清康・広忠・元康(家康)の文書は、本書の収録の対象としていない。その他、信定よりのちの桜井松平氏・藤井松平氏・福釜松平氏、重政よりのちの堀氏、石川氏など市域を拠点とした一族の関連史料を収めた。これらについては、その活動のすべてについてではなく、市域との関連をとくに示す史料を中心に収めた。
 当時代以前からこんにちに引き続き市内に所在する寺社の史料は、当然収録の対象である。収めたもののうち、特徴的な点について述べておく。市内野寺町の本證寺は、当時、浄土真宗本願寺派三河三か寺の一つとして有力で、市内所在中世史料として最も大きな史料群である本證寺文書を伝えている。同文書はこれまでそのすべてについて紹介されてはいなかったが、中世文書については、ここにもれなく収めた。同文書のうちには後代の移入と見られるものもあるが、それらを含めて天正十八年九月以降寛永期までの文書は、別編に収めた。また、市内には当時代以前や当時代に起源を有する浄土真宗寺院が、その他にも多く所在するが、その起源を知ることのできる絵像本尊(宗門では方便法身尊像と称する阿弥陀如来絵像)の裏書も多く伝わっている。各寺院の協力により、原本調査の結果をここに収めることができた。寺院史料ではまた、当時代には市域に存したが、松平清康の岡崎進出にともない転出するなどして今は市内に所在していない甲山寺・善立寺等の寺院の、市域との関わりを示す史料も、知られる限りすべて収めるよう務めた。
 さて、歴史の研究にあたっては、文書・日記・銘文など確実な同時代史料を基礎とするのはいうまでもない。明らかな偽文書であると判断されたものは収録しないのは当然である。一方、後代の編さん物であっても、その時代に生きた人が後に記したものや、その時代の生き残りの人物からの聞き取りや実証的な態度に貫かれた調査の結果に基づく著作物は、そのままを直ちに史実と断定できないにしても、多分に史実の可能性を含むものとして重視しなくてはならない。ここでは、そのような良質な著作物のうちに見られる市域関係記事については、〔参考〕を付して収めた。なお、一七世紀前半までに成立した著作物のうち、同時代史料と照らして矛盾がなく、また諸説の間でも異論がなく蓋然性が高いと判断されている記事については、これを一応史実とする綱文を置き、そのもとに〔参考〕を付さないで史料を配した。こうした史料のうち、本書で多用したものについて以下に簡単な説明を付しておく。『松平記』(著者不明)・『三河物語』(大久保彦 左衛門忠教著)は一七世紀初期に成立した徳川創業史である。「岡崎領主古記」(総侍尼寺の寺侍本間重豊著)は一七世紀のうちに、「岡崎東泉記」(満性寺東泉坊の住職教山著)は元禄期までに、それぞれ地元で成 立した地誌である。『寛永諸家系図伝』『譜牒余録』(もとは貞享書上)は、それぞれの時期に実施された幕 府修史事業の産物である。『朝野旧聞?藁』は、同じく幕府事業として二四か年を要して天保十三年(一八 四二)に完成した徳川創業史に関する史料の集大成である。

 

《章解説》別編

  木簡

  《略》


 
 墨書土器
 概 観  安城市内の土器関係の文字資料は、一四遺跡で六四点が知られている。このうち墨書土器が一二遺跡 六二点と全体の九五パーセント以上をしめている。 墨書土器以外では、御用地遺跡で刻書土器が、加美遺跡で刻印土器が、それぞれ一点ずつ出土している。
 以下、墨書土器を中心に市内出土文字資料の特色を概観したい。まず、時期別には奈良・平安時代の資料が多い。次に墨書される土器には須恵器・灰釉 陶器・灰釉系陶器などがある。いずれも一般的に使用されるもので、特定の種類を選択したことは確認できない。器種には椀・皿・杯などの供膳具が多く、 外底部の中央に一文字というパターンが圧倒的多数となっている。
 次に出土位置であるが、次頁の分布図によれば、 碧海台地縁辺部とその前面の沖積低地中に分布し、 とくに別郷町~山崎町・古井町・小川~寺領町周辺に集中している。ただし、これは遺跡が濃密な場所とそのまま重なっており、墨書土器を出土する遺跡だけの特徴とはいえない。
 次に出土状況であるが、大きく二つに区分できる。 まず、集落の居住域およびその周囲に破片資料が散在する事例がある。下懸遺跡を代表例とする。一方、 特定の遺構などから完形もしくはほぼ完形品が集中して出土する事例もある。鹿乗川流域遺跡群(古井堤遺跡)の溝状落ち込み12号や、桜林遺跡の溝1号、 上橋下遺跡の祭祀遺構などが具体例である。同時に出土している遺物には、桜林遺跡では斎串や鍬形などの木製品が、上橋下遺跡では銭貨や犠牲獣と推定されるウマの頭骨がある。いずれも祭祀に関連する遺物である。

   

 寛永年間までの市内所在資料

  ここには、市内所在資料ではあるが、本編の各時代の収録基準に従って収めることのできない資料を収録した。寛政年間までを対象としたのは、『資料編 近世』の編方針との調整の結果である。ただし同様の理由から、ここには、市内に所在する当該期の複数の検地帳と、 江戸時代の菩提寺文書(寛永年間以前の村方の文書)は収めていない。これらについては、『資料編 近世』または報告書などの、本巻以外の、市史編さん事業としての刊行物に収められるからである。資料は年代順に配列した。資料ごとの解説はとくに付さず、資料本文のみとするのを原則とした。
なお、典籍奥書についてはいまだ充分な悉皆調査を実施する条件が整わないため、対象外とした。本願寺実如書写蓮如書状(御文)なども、典籍に準ずるものとして同様の扱いとし た。

  

 志貴荘関連資料

  ここには、志貴荘関連資料のうち、本編の各時代の収録基準に従って収めることのできない資料、さらに市外所在資料であるため「寛永年間までの市内所在資料」にも収めることのできない資料を収録した。市内所在資料の収録範囲と同様に寛永年間までを対象とした。とくに志貴荘関連資料の題のもとに資料をここに収めたのは、志貴荘については史料上、時に碧海郡と冠されることもあれば、また一方で幡豆郡と冠されることもあることが注目されるなど、これまでの当地の地域史研究のうえで、当荘資料には特に強い関心が向けられてきたことに考慮したからである。年代順の配列、資料本文のみの掲載を原則としたのは、「寛永年間までの市内所在資料」の場合と同様である。
 本書に収めた資料は、諸種調査報告書、刊行物に収められた写真版、東京大学史料編纂所写真帳などによってすでにおおやけにされていて、その様態を知ることができたものに限ら れる。

 
 三河国司一覧 
    《表略》

  
 三河国関係紀行文一覧 
・古代から中世末において、三河国を旅して記された紀行を編年順に並べたものである。
・単行のものばかりではなく、日次記・史書等の一部として収載されているものも所収した。
・地名の表記は、典拠とした刊本の表記に従っている。

 

 

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