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更新日:2018年2月16日

新編安城市史6資料編「近世」

 解説    はじめに / あとがき

《章解説》    第一章 / 第二章 / 第三章 / 第四章

  

 はじめに

 近世部会長  遠 山 佳 治
 
 『新編安城市史6 資料編 近世』の編さんの経緯を、近世部会発足までさかのぼって説明し、資料編の位置付けを示すとともに、資料編の編さん上の基本方針とともに形態上・内容上の特徴を述べていくこととする。

 〈資料編編さんに至る経緯と掲載資料の選定〉
  平成九年九月の第一回市史編集委員会議の意向を受け、二回の近世部会準備会を経て、平成十年四月の第一回近世部会が開催され、編さん事業が本格的に始まった。資料調査は悉皆調査を行うという方針で、近世部会と編さん事務局が協力して進めた。前市史編さん時での資料や安城市歴史博物館所蔵資料の確認作業から始まり、各町内会資料さらには各家の文書資料や県外所蔵資料へと広がっていった。現在も資料調査活動は継続中ではあるが、現時点で、所蔵者三五〇か所、約一〇万点余の史料を確認している。その成果のほんの一部ではあるが、すでに『新編安城市史報告書1 西尾町内会資料目録』(二〇〇二年)、『新編安城市史報告書2 東尾町内会資料目録』(二○○三年)、『新編安城市史報告書3 本證寺文書史料集「諸事記」』(二○○三年)を刊行している。 本資料編とともに、ご活用していただけると幸いである。
  次に、本資料編刊行に至る部会活動に触れておこう。私たち近世部会にとっては、昭和四〇年代の地方自治体史の『前市史』の成果を、どのように継承し、または新視点で捉えていくのかが最大の課題となっていた(現在も課題となっている)。そこで、まず『前市史』の内容を検討し、執筆・編集の中心であられた塚本学氏を招いて討論会(『安城市史研究』2号に掲載)を開くことで、私たちの使命を探り出す作業を行った。その結果、社会史・生活史重視の姿勢や地域に根ざした視点は継承しつつ、領主支配の違いによる村落のあり方の違いを配慮すること、数か村単位でみられる比較的小規模な地域の特性を配慮すること、市域を超えた広い地域との繋がりを考慮すること、前市史では活用できなかった諸史料を活用することが確認された。そして、北部の東海道沿いの地域、東部の矢作川流域平野部に位置して岡崎藩に関係する地域、中央部の旗本久永家知行の安城村を中心とした碧海台地上の地域、西部で碧海台地上に位置して刈谷藩に関係する地域、南部の油ヶ淵周辺地域で西端藩や大浜陣屋と関係する地域の五地域に分けて、掲載史料の選定作業を始めた。この五地域に基づいて、資料編へ掲載したい候補資料を約二年かけて発表会形式にて選定した。
  さて、一般に多くの地方自治体史の資料編では、章節項など資料編の内容項目がある程度決定した段階で、その内容に則した史料の選定作業を本格的に進めていく場合が多いと思われる。その作業の中で、項目内容にそぐわないという理由で、興味深い多くの史料が選定から洩れていくのが常である。しかしながら、本資料編では上記の編さん経緯のため、章節項などの内容項目を確定させる前に、あえて史料の選定作業を進めた。つまり、下(史料)からの積みあげを重視した編さん作業を行ったのである。その結果、雑多で幅広い内容の史料が含まれるものとなったと考えている。多様な内容の史料とはいえ、史料が豊富に掲載されている訳ではない。次項で詳しく説明するが、本資料編は独自な形式で編さんしたため、従来の資料編と比べ掲載資料が極端に少ない。つまり、多種多様な項目にて厳選された史料の集まりとなっている。
  このような編さん経緯により、本資料編の章節は、やや大まかな内容項目の括り方(四章一二節構成)となっている。領主支配に村がどう対応したのかを追究した第一章「村と領主」、明治用水前史を含む開発問題を扱った第二章「山と水の利用と災害」、商業活動を含め交通・流通から人と物の動きを解明した第三章「東海道と矢作川」、村人のさまざまな生活と文化を包括した第四章「村に住む人々の暮らしと文化」で構成している。また、 「村の景観」を理解していただく参考資料として安城村・福釜村の絵図を付録とし、巻末には掲載史料の資料群解説と索引を加えた。なお各章節の細かな説明については、各章の扉裏に掲載した「章解説」に譲ることとした。

 〈資料編の特徴と基本方針〉
 1 市民に親しまれ、活用される市史の編さんをめざすとともに、近年の研究成果をふまえた市史とする。
 2 より広域な旧碧海郡・西三河を視野に入れた市史とする。
 3 市民一人ひとりにつながる歴史と、風土の特質をとらえた市史とする。
 4 資料を広範囲に収集・整理し、その保存を通し活用の便を図り、地域の研究に役立てる。

  これは、新編安城市史編さん全体の基本方針である。本資料編では、この基本方針の趣旨を近世部会なりに追求して編さん活動を行った。すでに『前市史』『前市史資料編』『明治用水史』、近年では『愛知県史資料編18』 と刊行されており、ある程度の史料が翻刻されている状況があった。そこで、知られている史料の再録は避け、 なるべく新しい史料を掲載するように努めた。そして、少数の歴史研究者向け対象に作るのではなく、多くの一般市民へ新しい歴史事実をいかにして効率よく伝えることが出来るかを検討した。このように、市史資料編のあり方・役割に、部会での審議にて多くの時間を費やした。その結果、一般的な資料編の形式とはまったく異なり、 掲載史料のほとんどを写真提示する形式を採用した。分量の多い史料は、適宜写真掲載部分を限定し、または前 略・中略・後略などで対応した。この形式によって、一般市民には親しみやすく、また郷土史研究や古文書解読 興味を持たれる方々に、大いに活用してもらえるものになったのではないだろうか。
  掲載史料の内容を理解していただくために、資料のあとに「要約」と「解説」という二部構成で解説部分を設けた(但し、内容上要約を省いたものもある)。「解説」の執筆は、一つ一つの史料を丁寧に読み解き、一つの史料から窺える多様な歴史事実は全て伝えるという姿勢に立脚している。さらに私たちは、関連史料や研究成果 およびその課題などについて積極的に触れ、掲載史料の社会的背景を考慮しながら、史料から読み取れる歴史事実の社会的役割を位置付け、また歴史像を提供していくように、「解説」にて発展させて言及するよう努力をした。そのため、一般の資料編における解説部分の分量をはるかに超えるものとなったが、独特な市史資料編を作りあげたと自負するところである。
  つまり、本資料編は従来までの資料編とは異なり、単なる史料の紹介に留まっていない。その丁寧な解説を読むことによって、一般市民の歴史理解を支援できるものとなっている。そして、本資料編の刊行によって、市民の人たちによる江戸時代の研究が、今後より一層進展することを願っている。
  最後に、本資料編には、江戸時代における身分上の差別をあらわす歴史用語が含まれている。当時、差別が行われたことは歴史事実であるという観点で、史料の翻刻および解説の執筆にあたってはそのまま触れることにし た。しかし、このことは不当な差別を助長する目的ではなく、正確な事実認識を行っていただくことにより不当な差別の解消に努力したいという近世部会および新編安城市史編集委員会の立場からのものであることを、ご理 解いただきたい。

   平成十七年九月

  

 あとがき

 近世部会編集委員  篠 宮 雄 二
 

 「はじめに」で詳しく述べたように、今後の資料の保存と活用を視野に入れた悉皆調査、『前市史』の継承と新たな視点の提示、「市民に親しまれ、活用される市史の編さん」という三つの柱を前提に、調査協力員を含めた近世部会構成員参加による本巻の編さん事業は、当初予想していた以上に困難な作業となった。しかし、現時点でこれらの作業をふり返ってみると、たとえば事務局を含めて実施した悉皆調査は、各委員が原史料に触れな ら整理カードを作成するなかで、史料一点一点に対する素朴な疑問と興味を蓄積する過程であった。事務局の手助けを得ながら開始した市内巡見についても、生の史料から得た安城市内各地域のイメージと、徐々に失われつつあるとはいえ今なお現地に残る歴史的な景観と雰囲気とを摺り合わせていく知的で楽しい作業であった。その後実施した掲載候補史料についての約二年間に渡る発表会は、一・二点の史料を提示し、他の史料と連関させ ながらその史料の歴史的位置づけや安城市域の近世像を浮かび上がらせることを報告者に強いたものであった。 この発表会は、『前市史』だけではなく、安城市内の歴史研究団体による研究蓄積の充実ぶりを思い知る機会ともなったが、同時に各報告者の緻密な史料分析と大胆な発想、さらには全く遠慮のない意見交換によって、安城市域の近世社会のあり方を共有する場ともなった。

  これらの基礎的な作業を踏まえながら、各委員が掲載史料を選定しそれに要約と解説を加え、その上で各委員同士で意見交換を行い、修正等を図っていった。これまでの安城市内における研究蓄積、および以上で述べた作業によって共有された知見は、本資料編の特徴である「要約」と「解説」の各所に反映されている。さらに、「市民に親しまれ、活用される市史の編さん」という基本方針を貫くため、各委員が執筆した要約と解説につい ては事務局の様々な方からの率直な意見を寄せていただいた。また、監修の新行紀一先生には学術的な立場と読者である市民の立場という二つの観点から、多くの貴重なご意見を頂戴した。なお、史料選定の結果、調査した資料群のなかには本巻に掲載されなかった史料もあるが、通史編では当然これらの史料も活用させていただく予 定である。

  近世部会としては、以上の作業と検討を踏まえながら、本資料編の中身を冒頭で述べた三つの柱に限りなく近づけることに努めたつもりではある。どうかさまざまな御意見と御批判を賜りたい。また、悉皆調査をはじめとする資料編編さんにともなう活動全般に対しても、率直な御意見・御批判をお寄せいただきたい。この一冊とそのための編さん活動が、安城市域における新たな近世史研究の展開と貴重な歴史資料の保存・利用のための踏み台となることが、本巻執筆者にとって何よりも望ましいことである。
  最後に、編さん作業の中で多くのご理解とご協力を賜った史料所蔵者の方々および史料収蔵・研究機関に対して心から感謝したい。

   平成十七年九月

 

《章解説》

 

 第一章 村と領主

 第一章「村と領主」は、一六世紀末から一七世紀段階における江戸時代の村落の成立過程、個々の百姓たちの生活と生産を保障することを目的に構成された団体としての村のあり方、このような団体としての村に対する領主支配のあり方、さらには百姓以外の身分集団や村々の関係を示す史料を掲載した。
 本来、江戸時代の村はそれぞれに個性的な内容を持っており、さらに現在の安城市域に含まれる江戸時代の村々は、 幕府・大名・旗本・寺社など多様な領主支配のもとにあったため、領主支配のあり方も一律に論じることはできない。 本章では村と領主支配の多様性を踏まえつつも、百姓によって構成される団体として村を捉え、江戸時代の村と村々を含み込む地域、それに対する領主支配のあり方について、基本的な性格を示す史料を掲載した。

 第一節「統一政権と近世村落の成立」では、豊臣政権から江戸幕府へと政権交替が行われるなかでの、領主支配の変遷とこの時期にのみ現れる高橋郡に関する史料、天正十三(一五八五)年以降許された本證寺領の確定状況を示す史料を掲載した。さらに近世村落の成立過程として、検地帳の作成とその利用、年貢収納体制の確立、近隣村で争った村境の争論に関する史料を掲載し、中世的な村落の枠組みから豊臣政権・江戸幕府といった統一政権の成立と展開のなかで、江戸時代の村として自立していく過程を提示した。

 第二節「村と百姓」では、村役人の選出、村による文書の管理、村の公共的施設としての郷蔵、村の必要経費、村独自の取り決めに関する史料を掲載し、団体としての村の諸側面を提示した。ただし、江戸時代の村の内部には、さらに生活と生産の共同性の基づく小集落が存在し、場合によっては小集落ごとに利害が対立する局面もあった。また、 江戸時代には一つの村が複数の領主によって支配される場合もあったが(相給支配)、そのことが必ずしも村としての一体性を分断するものではなかった。組と相給支配に関する史料は、村の内部構造の多様性を示す観点から掲載した。

 第三節「村と領主」では、まず人の支配、年貢の徴収、諸役の賦課という側面から、宗門人別改帳・年貢免状・触留といった村方文書として基礎的な史料を掲載し、村および百姓に対する領主支配の基本的なあり方を具体的に解説した。そのほか、幕府・大名・旗本といった武士身分による領主支配とは異なる寺院領主支配の特徴を示す史料、近世後期に財政難に直面した旗本知行所における調達金・先納金に関する史料、大名・旗本・寺社といった領主支配に関係なく、統一政権としての幕府が直接村に支配を及ぼす側面に関する史料を掲載した。
 さらに、村と領主の中間に位置する大庄屋と割元に関する史料を掲載した。大庄屋や割元は領主によって複数の村を単位に任命され、領主支配を支える一方で、村々の利害を代表あるいは調整する存在でもあった。

 江戸時代の村には、宗教者・芸能者といった村外の者が訪れ、また村の治安を非人といった百姓とは異なる身分の人々に委ねていた。このような村と他身分の人々との関係を示す史料を掲載した。これら宗教者・芸能者・非人たち は、一定の地域内において同じ職種ごとに組織化を遂げ、仲間・組合といった集団を形成していた。一方、江戸時代後半には複数の村々が場合によっては領主支配の違いに関係なく、地域住人独自の問題を中心にまとまりを形成することがあった。ここでは、岡崎藩の大庄屋制、西尾藩の大庄屋制・郡中惣代制など領主によって設定された村々のまとまりが中心となり、領主支配の異なる周辺の村々を含み込むかたちで地域的なまとまりが形成される様子を示す史料を掲載した。このような江戸時代の村と地域社会としての成熟を前提に、近代における地方行政のあり方が模索さ れたのである。


 
 第二章 山と水の利用と災害

 第二章「山と水の利用と災害」では、安城市域の村々が碧海台地と矢作川水系の沖積低地で展開した土地の開発と山野の利用、また開発に不可欠な溜池や用水の利用と管理にかかわる史料を収録し、水害や旱魃などの災害と復旧に関する史料も掲載した。

 第一節「碧海台地の開発と利用」では、碧海台地の開発と山野の利用や管理にかかわる史料を収録した。明治用水 によって全面的に開発された碧海台地は、すでに江戸時代以前から周辺村々による開発が行われ、一九世紀前半には都築弥厚による新開計画も立案された。ここでは、安城が原の開発に焦点を当て、江戸時代初めから明治初年までの開発状況を展望し、地元村である安城村と周辺村々との関係や領主の開発姿勢をうかがうことができる史料を掲載し た。なお、安城が原は江戸時代の史料では「安城村原」「安城山」「安城原野」などと表記されている。安城村所属の台地上の土地を植生などで区別した表記であるが、本編では、現在使われている「安城が原」に統一して表記することにする。また都築弥厚の新開計画については、『明治用水資料編』『前市史資料編』『愛知県史資料編18』などで史料の紹介がされており参考になる。ここでは、新開反対の地元村と弥厚や幕府見分役人との具体的な交渉内容を示す小川村の記録と、幕府見分役人の動向や地元に影響力を持つ本證寺と弥厚の関係を示す本證寺の一件記録を収録した。
 溜池の造成と開発をめぐる関係村々の水利権争いを示すものとしては、鷺蔵池と神田二つ池に関する史料を掲載した。なお、安城市域の溜池の史料は『前市史資料編』で紹介されており、また作野池については『愛知県史資料編18』 が史料を掲載している。山野は、村や領主にとって秣場や草刈り場、また建設資材や燃料の供給地としても必要不可欠であった。ここでは、松木林の造成と岡崎藩の郷山廻(山守)に関する史料を収録して具体的な山利用と山の管理体制について示した。
 
 第二節「油ケ淵と矢作川の用排水」では、市域南部の油ケ淵の開発と矢作川からの用水利用にかかわる史料を収録した。矢作新川の開削と米津・鷲塚間の築堤工事によって一七世紀中ごろに形成された油ケ淵には、近世前期の三河を代表する大規模新田である伏見屋新田の一部が造成された。ここでは、伏見屋新田の成立と油ケ淵の池廻り村々による新堀川開削やその維持管理組織(池廻り組合)の結成、さらに四か村用水組合の動向を示す史料を掲載し、新田開発が池廻り村々に与えた影響や新田の維持管理をめぐる周辺村々の連繋と対立のあり方を示した。さらに赤坂代官所や中泉代官所などが新堀川開削や池廻り組合維持のために果たした役割や、静岡藩赤坂郡政役所が明治初年の四か村用水組合問題で個別領主の支配を超える役割を果たしたことにも注目した。また、用排水については明治初年に古井村が北野用水からの分水を実現した史料と、鹿乗川の新川開削に関する史料を掲載した。

 第三節「災害と復旧」では、さまざまな災害の実態と村方や領主による対応策を示す史料を掲載した。とくに一八世紀中ごろから頻発して安城市域に大きな被害をもたらした矢作川の洪水に焦点を当て、水害が村社会に与えた影響を示す史料を紹介した。また治水対策では領域を超えて連繋しながら洪水時の応急措置をめぐって厳しく対立する流域村々の複雑な関係にも注目した。なお、『新編岡崎市史8』には矢作川水系の水害に関する史料が紹介されており参考になる。この他にも疫病の流行が村による開発を遅らせて村社会に長く影響を及ぼしたことを示す史料や、安政東海地震による被害状況を示す史料も掲載した。さらに天保飢饉における難渋者の特徴と、領主による御救米支給や村方富裕者による米の安売りのあり方を示す史料を紹介した。


 
 第三章 東海道と矢作川

 第三章は、「東海道と矢作川」とした。安城市域の交通・流通・金融にかかわる江戸時代の特徴は、陸の道・東海道が東西に、川の道・矢作川が南北に通り、多くの人々やモノが動いた点にある。

 第一節「人の動き」では、おもに交通をとりあげた。安城市域には、茶屋として大浜茶屋があった。しばしば参勤交代通行中の昼休み場所として使用され、しだいに大浜茶屋は町場化していった。また、南からは大浜街道、北からは挙母街道が東海道と交わった。そのほか、大浜(現碧南市)から岡崎に向け、安城市域を横切る桜井道もあり、江戸時代後期になると、東海道や脇往還などの交通量は増加した。江戸時代後期は、旅や参詣が日常的になりつつある時代である。ただし、いまのような個人の気ままな旅行ではない。村をあげて旅に送り出され、餞別・土産が村社会のなかで欠かせない慣習の一つとなっていった。江戸時代は、「入り鉄砲に出女」といわれるように関所での厳しさが強調されるが、比較的自由な通行が認められていた。ただし、村を基本とする社会であったため、村を出ることは管理されていた。婚姻・養子・奉公などで村を離れる場合は「送り一札」が作成された。そのため「送り一札」をみることで、さまざまな人の移動を知ることができる。本節では、旅などの人の移動を中心に、出かける安城の村の人々と、旅人を迎え入れる安城の村側の視点から、史料選定を行った。また、生活の場を移り変える際の基本システムにも着目し、史料を掲載した。
    
 第二節「モノの動き」では、おもに物流・金融をとりあげた。矢作川の中上流の土場(河岸)と河口部の鷲塚湊・ 平坂湊との間では、川船がさかんに荷物を運んでいた。その一方で川が交通の妨げになることもあった。交通量の増加とともに渡船が発達したが、しばしば利権争いとなり、村落間の対立を引き起こした。また、厳しい財政状態に追い込まれた領主も多く、領主は商人の手を借り、効率よく米や金を廻す方法を模索した。年貢米を直接江戸に送るのが良いのか、地元で払米を行い代金を江戸に為替送金するのが良いのかなどの使い分けを考えた。経済の効率性を求める動きは領主に限らなかった。村が頼母子講を利用し、財政を支える動きもみられた。このように活発化する物流・金融活動に注目し史料の掲載を行った。

 第三節「商業活動」では、とくに都築家と太田家の商人の項目を立てた。それは彼らが大商人・資産家というだけではなく、江戸・上方といった遠隔地取引を行い、つねに地域に大きな影響を与える商人であったからである。都築家は三河最大級の酒造家であり、とくに江戸の鴻池家と親交が厚く、都築家から江戸へ出荷される酒のほとんどは鴻池家が扱った。太田家は真宗門徒であり、東本願寺再建のための材木を調達し、その後江戸に出店するなど材木商として活躍した。真宗門徒の京都行き材木の調達は、京都と三河の経済関係を考える意味でも重要である。また、太田 家は一時期木綿商を営んでいたことも、市史編さんの史料調査で明らかとなった。さらに都築家・太田家はともに新田地主という顔を持つ。酒造家・木綿商などの大商人が新田地主となり、そのネットワークを基に地域金融を行っていた。新田を担保に多額の借金をし、都築弥四郎はその資金をもとに用水路を築こうとした。錯綜した領主関係のな かで各村の利害調整ができず失敗に終わったが、数千両の資金を産み出す力は注目すべき点である。一家で多種多様な経営を行う点を重視し、史料の選定を行った。

 東海道・矢作川を中心とした交通・流通の発達、上方・江戸への産品の供給による地域経済の成長は、大小さまざまな商人を生み出した。多くの人々が村を通ると商人宿や居酒屋が繁昌し、それは村の生活にも影響を与えた。饅頭 屋・うどん屋などができ、天秤棒で商いをする棒手振もみられるようになった。江戸時代後期は、小規模の経済活動でも最低限の生活を送ることのできる時代になっていた。


 
 第四章 村に住む人々の暮らしと文化

 第四章「村に住む人々の暮らしと文化」では、農村地域であった安城市域さらに碧海郡で暮らしていた村人たちが、 江戸時代後期における社会諸世相から規制を受けつつ、または逆に影響を与えながら、具体的にどのような生活を送っていたのかを知り得るような、さまざまな史料を三節に分けて掲載した。

 第一節「村のなりわい」では、村人たちが、いかなる技術を身に付け、どのような生計を営んでいたのかが知られる史料を収録した。とくに稲垣家の農家日誌は、具体的な農作業の様子や農業技術が記された史料である。さらに、 水車稼ぎなどの市域の特徴が窺えるものを示した。なお、農村地域とはいうものの、農業に限らず、村人たちは多くの生業を織りまぜながら生計を立てていたものと思われる。碧海郡でのモノづくりは、村人たちの生業が、村の産業として位置付きながら、地域の特徴的な産物を生み出していく点に面白さがある。藤井村の瓦生業、和泉村・東端村の酒造などである。また、村人のそれぞれの身分・立場と密接に関係する生産にも注目し、太鼓づくりを取り上げた。 なお、商業や交通関係の職業については、第三章で扱った。

 第二節「村のでき事と村人の生活」では、村のでき事や状況をみることで、村人の日常生活に迫り、村人の生活意識と各時期の社会情勢を探ることを意図した。第一に、誕生から葬式・法事までの人の一生(ライフサイクル)とその祝儀・不祝儀でみられる村人のつきあいをみた。また、若者や老人などが村の社会でいかなる活動をしていたのか、 いかなる処遇を受けていたのかが知られ史料も織りまぜた。第二に、村で起きたさまざまな事件として、多くの事件から、当時の村または村人の諸対応を知ることができる、捨て子・火事・盗難の各事件を取り上げた。第三に、市域で盛んに行われた文化活動として雑俳、新開計画の都築弥厚が当時の文化人を結集して行った石川丈山の顕彰活動、 寺子屋にみられる教育事情、都からの情報経路が知られる史料を示した。第四に、三河花火・芝居・三河万歳・相撲と当地域を代表する娯楽・芸能を取り上げた。市域の別所村の三河万歳については、『三河万歳-伝承された舞の形』 (安城市歴史博物館)などの既刊本でほとんどの史料が紹介されている。また、実際万歳を披露した地域は当地域ではなく関東地方などであった。そこで、資料編の三河万歳については、当地域に直接関連した勧化活動の史料を掲載 した。

 第三節「村人の祈り」では、真宗勢力の強い当地域における宗教・信仰の状況を示した。とくに野寺本證寺は、江戸時代を通じて三河三か寺の一つとして、本末・触頭制度を中心に三河全体の真宗寺院・門徒を視野に入れた中本山として大きな勢力を保っていた。このように真宗が優勢な社会のなかで、三河三か寺の末寺に視点を置いた史料を収録した。これらの史料より、西三河という広範囲にて真宗寺院間の連携や齟齬の状況、村または村人と真宗寺院との関係をうかがい知ることができよう。なお、本山再建の諸活動については市域の門徒を中心に記された史料が少なく、幕末の本末争論については『新編安城市史報告書3 本證寺文書史料集「諸事記」』で、維新期の大浜騒動については既存の史料集でほぼ紹介されている。このような理由で、両事件に関連する史料の掲載について資料編では割愛し、 通史編の記述に譲ることとした。このように門徒が多く幕らす村ではあったが、村人は真宗寺院との関係を保ちながら、多様な信仰生活を展開していった。そこで、とくに当地域で浸透された信仰として認識されている薬師信仰・秋 葉信仰・伊勢信仰、また蛇除けや雨乞いなど日常生活や農作業に直接関連するような多様な信仰を示した。さらに、 史料の残りが比較的良く、各時期の動向か明らかとなった桜井神社を中心に、祭礼、神葬祭、神仏分離などの神道に関係する史料を示した。 

 

 

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