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更新日:2018年2月16日

新編安城市史7資料編「近代」

 解説  はじめに / あとがき

《章解説》 第1章 / 第2章 / 第3章 / 第4章 / 第5章

  

 はじめに

 近代部会長  伴 野 泰 弘 
 
 はじめに、本書編さんに際しての方針と経過と特色を、簡単に述べておきたい。
 近代の安城といえば、やはり「日本デンマーク」である。本市域は、近世までと近代以降とは、まったく異なる様相を見せる。その最大の要因は、明治用水によってそれまでの採草地・共有地・溜池・林地などが開墾され、 農耕地へと変貌を遂げてゆくことにあった。人家もまばらな地域に他所から農民が移り住むようになり、新たな農村社会が出現する。さらには、当時として最も先進的な交通手段である鉄道と駅が設置され、人の移動と物流の集約点として決定的な役割を果たすようになる。これが契機となり、農商務省農事試験場の東海支場、県立農林学校をはじめとするさまざまな公共機関が、地元の熱心な努力とあいまって誘致される。こうした条件の中において、移住してきた人々が開墾地を豊かな農地に変えようとして苦闘する姿、また、新知識や技術を獲得し、新商品・新分野に挑戦して少しでも豊かな収穫と安定した生活に結びつけていこうとさまざまな機会に集い、試験場技師や農林学校からどん欲に学び取ろうとする人々の懸命な姿、これが、後の日本デンマークにつながる。
  そこで、本資料編では、〈日本デンマークの形成と展開〉を基本テーマとして立て、これを基軸として編さんしていくこととした。

  このテーマを含む本市域の近代史については、今から三十数年前に刊行された『安城市史』『同資料編』が最初の学問的な成果である。この時は調査編集に充てることのできる期間や掲載スペースの制約、資料所蔵機関を利用する便宜の問題などがあり、本格的な近代資料編を作るところまでは到らなかった。したがって今回の編さん事業においては、上記基本テーマについて、前市史の成果・到達点を踏まえ、今日の学問研究水準に即して、 本格的な内容のものを提示すること、これが近代部会の課題となった。 その際われわれは、用語としての日本デンマークは、大正期後半から新聞紙上などに登場するようになるが、 その実体は明治期から地域内外でとり組まれるさまざまな営みの蓄積の上に花開いたものであるという、歴史的視点からアプローチする立場をとった。したがって、これを成り立たせている条件がなくなれば、日本デンマー クもまた消滅するという見方をすることになる。
  日本デンマークが展開する社会的・空間的な拡がりについては、次の二つの視点で捉えていくことを重視した。 第一に、日本デンマークとは、たしかに本市域に深く関わるテーマではあるが、それが現実の姿に形づくられるには、碧海郡役所はもとより、愛知県、ひいては政府まで巻きこんで広汎に展開する社会的・行政的なつながりがあり、これを基盤として、初めて可能になったものであるという視点。第二に、こうした広域的な拡がりと同時に市域内部でのさまざまな地域差、地域性とその関連にも配慮するという視点。
  第一の視点について言えば、愛知県農事試験場や碧海郡全体を対象地域とする碧海郡購買販売利用組合聯合会(通称「丸碧」)をはじめ、本市域を越えるさまざまな組織・機関・学校を取りあげた。第二の視点についても、 町村合併時のやりとりをめぐる資料などできるだけ市域内各地の資料を収集し、掲載することに努力した。
  本資料編を市民に親しまれるものにすることにも、力を注いだ。採録した資料には、漢文や古文の知識が求められ、旧字体が使用されているものが多い。これを常用漢字程度の知識で読めるようにするため、読みにくい箇所にはふりがなを付け、巻末には「頻出・難読文字一覧」を置いて、読者の便宜をはかった。また、章節の解説で参考にした書籍・研究論文などについても参考文献一覧にまとめた。

  資料調査の便宜について、前市史の時点と比較して、大きく異なる点がいくつかある。第一に、愛知県公文書館ができ、国文学研究資料館愛知県庁文書および徳川林政史研究所資料の複製が自由に簡単に閲覧できるようになったこと(もっとも、これは、マイクロ写真撮影によるモノクロ複製版であり、厚い簿冊の場合とじ目の部分が読めないなどの問題はある)。第二に、愛知県史・新修名古屋市史の編さん事業がほぼ同時期に始まり、県内各地の自治体史編さんと互いに刺激を与えあえるようになったこと。また、本市の周辺でも、市域に関わる新たな資料を含む自治体史の編さんが進んできたこと。第三に、さまざまな資料目録の整備が進み、さらにはイン ターネットでの公開もあり、以前には到底考えられなかったような資料アクセスヘの便宜を得たこと。われわれは、こうした条件を利用して、今回の編集作業にあたることができた。
  市史編さんに際しての事務局体制が、三十数年前と比べ格段に充実したことも、今回の資料編の大きな特徴である。市史編さん室が、地元資料を重視する方針にそって、町内会・学校・個人宅・寺院・神社・諸団体などに保管されている古文書・書簡・書籍類を史料学的手法に即して分類・整理・撮影する作業を着実に進め、近代部会に関わる資料についても膨大な目録が作成された。こうした便宜を利用することも、今回の資料編にとって大 いに裨益するところがあった。

  なお、地租改正など取り扱うべくして扱わなかったテーマについては、資料の不足による場合と『安城市史』『同資料編』『明治用水』や、本市域の歴史に関わるさまざまな著作などとの関連を考慮してあえて取りあげなかった場合とがある。これについては本文編の課題とする。
  以上のような特徴をもつ近代資料編が、安城市民、そして安城市に興味を持つ人々に、少しでも役立つことがあれば幸いである。

   平成十八年六月

  

 あとがき

 近代部会編集委員  宇 佐 見 正 史 
 

 近代部会が正式に活動を開始したのは、平成十年四月のことであった。部会として最初に取り組んだのは、『前市史』の「第六編 近代」の輪読により、『前市史』の学問的成果の到達点を確認し、新市史の課題の設定に向けた検討を進めることであった。そして、この検討作業の進捗と並行して、資料の調査・整理と撮影対象資料のピックアップとともに、安城の近代史に関わる土地鑑を養うための市内各所の巡検を随時おこなった。このように初期の部会活動は、輪読、資料の調査と整理、巡検という三位一体によって進められた。その際に留意したのは、安城の近代史について委員の共通認識をつくるために、あらかじめ分野や時期について担当者を割り振ることはせず、委員全員で資料を調査し、議論するというスタイルをとったことである。またこの過程で、市内だけでなく県内外の諸機関・図書館などを対象とした資料調査も精力的におこない、多くの貴重な資料を渉猟した。

  そして、以上の準備作業がある程度進んだことを前提に、平成十三年に入ってからは時期別・分野別の区分にそって担当者の割り振りをおこない、各委員がそれぞれの担当部分について構成(目次)案を報告し、それをもとに議論するというかたちで部会運営が進められた。こうして各委員の案が出そろったところで、部会長・編集委員が本書全体の最初の構成案を作成して部会に提示したのが、平成十四年九月のことであった。 この原案をたたき台としてさらに部会で議論が重ねられたが、その際に議論の焦点になったのは、各時期と諸分野にわたりまんべんなく資料を掲載していくのか、あるいは基軸となるテーマを設定し、そのテーマに収斂していくような資料配列を考えるのか、という編集理念上の問題であった。そして、近代部会では後者の方法を選択し、「はじめに」で述べたように、〈日本デンマークの形成と展開〉を本書の基本テーマとすることに決定した。なぜなら、こうした方法をとった方が、読者にとって安城の近代史をより明確にイメージできるのではない かと考えたからである。

  こうした紆余曲折を経て、本書の目次の原型となる構成案ができたのが平成十七年四月であり、各委員は、この最終構成案にそって掲載資料の最終選定に入り、必要に応じて資料の補充調査をおこなった。そして、目 次・掲載資料・解説文の最終的確定に向けた議論を重ねながら、ようやく入稿に至ったのである。なお入稿に際し、掲載資料の再構成や、タイトル・本文・解説文などの全般にわたり、部会長・編集委員が統一と調整をはかった。
  以上のように、近代部会の委員にとって、本書は安城の近代史像を彫琢していくための試行錯誤の産物であると同時に、通史編の執筆に向けたスプリングボードとしての意味を持つものである。というわけで、本書の内容については、どうか読者の忌憚のないご意見・ご批評を賜りたい。

  編さん作業の中で、多くの貴重な資料を提供し、利用・掲載を快諾してくださった資料所蔵者の方々、資料収蔵・研究機関、図書館に対し、厚くお礼申し上げたい。貴重な資料でありながら、紙幅の制約で掲載を割愛せざるをえなかった資料も少なくないが、こうした資料はできる限り通史編の叙述に生かしていきたい。また、ともすれば作業が遅れがちになる委員に対し、根気よく対応してくださった編さん事務局の方々に感謝したい。そし て、調査協力員の杉山智美さん・長江秀治さん・秋山郁子さんからは、資料の判読に始まり筆耕・校訂・校正に至るまで多大な協力をえた。深甚なる謝意を表したい。
  最後になったが、近代部会の委員として本書の刊行に尽力された愛知県立大学の石川靖之教授が、本年二月に急逝された。謹んでご冥福をお祈りしたい。

 平成十八年六月

 

《章解説》

   

 第1章 安城が原における近代の形成  

 

 本章では、明治四年(一八七一)の廃藩置県から二十年代半ばまでの時期、本市域での近代の始まりを示す資料を、行政区画の設定、小学校の設立、明治用水の通水とそれに伴う地域農業社会の変貌について、三節に分けて収録した。
  近代国家の確立、そのため、維新政府は旧来の諸制度を改変・変革する政策を実施する。政治・行政において近代的な統治システムの確立、産業経済において殖産興業政策の展開、教育において近代的統一国家の形成に貢献できる人材の育成、などあらゆる領域で行われる。こうした、中央政府による変革は、大きな地域差を含みながら、全国各地域で実施される。その過程では、試行錯誤による軌道修正は避けられず、とくに初期ほどその傾向が強い。
  地域社会における行政区画の設定は、町村財政など狭い意昧での行政単位だけでなく、学校区の設定、神社祭礼に参加する氏子の範囲、水利権の設定などとも関わる重大問題である。この問題で、政策意図においては中央と方向性を同じくしながら、府県では地域の実情や担当する県令(県知事)など行政官により、実施過程に相違が見られる。
  第一節では、本市域におけるその実態を示した。第二節でも、五年の学制、十二年の教育令、十九年の小学校令、二十三年の新小学校令と、激変する制度に対応して県の政策も変動し、本市域で学校の設置も変化する状況を示した。
  明治用水については、従来、民間事業として開始され、伊予田与ハ郎・岡本兵松が発起人として活躍したことが大きく取り扱われてきている。第三節では、それを支援した出資者が直面した資金返済問題の資料を掲載した。本資料が県庁土木課で作成されたのは、内務省が二十二年一月、省令第一号「各府県下公共財産管理方」により府県財政の整理を命じたことによる。県による明治用水関連の貸付は県の会計制度上は「別途金」からであり、県会審議を経ない行政の裁量にまかされていた。この点を問題とする内務省県治局地方費課の担当者に対して、県財政当局として事情を説明する必要に迫られ、関連文書を精査し、土木課の現用文書から筆写されたものである。また、用水開通後の碧海台地で農業経営者のみならず農事改良運動の指導者・組織者として活躍した近藤林に光を当てた。

  

 第2章 農都安城への途

 本章が対象とする明治二十年(一八八七)代~三十年代は、日本の近代国家の確立期にあたるとともに、本市域においては、東海道線安城駅の開設をはじめ、農業指導機関・農業諸団体の創設、愛知県立農林学校の創立にみられるような、日本デンマーク成立のための社会資本や教育機関が整備されていく時期であった。また、日清・日露戦争は 地域社会に大きなインパクトを与え、日露戦後経営の一環としての大規模町村合併により、本市域に関係する新町村-安城町・矢作町・桜井村・明治村・依佐美村-が成立し、近代の地域行政単位の確立をみるにいたる。本章では、 こうした地域発展のための諸条件がどのように形成されていったのかという観点から四節に分けて資料を収録した。
  第一節では、東海道線安城駅の開業とそれに伴う道路改修という社会資本の整備、碧海郡農会の設立と農商務省農事試験場の誘致・開設と県への払い下げという農業指導機関の創設、そしてこの時期の農事改良と商業的農業の展開に関する資料を収録し、とくに農事試験場の誘致・開設・払い下げの過程を詳細に浮かび上がらせるために意を用いた。第二節は教育の分野について、単独の行政村単位での尋常小学校設立・就学率の漸次的上昇・高等小学校の整備といった諸側面にみられる初等教育の普及、地域教育の一環である夜学会と農業補習学校の展開、そして山崎延吉を校長に招聘した県立農林学校の創立と同校の教育方針・実態に関する資料を収録した。第三節では、日清戦争(二 十七年~二十八年)・日露戦争(三十七年~三十八年)が地域社会に与えた影響と、戦争の遂行を支える体制がどのように整備されていったのかという点に関する資料を収録した。兵力動員や軍資金・物品献納などの面で、村当局や大字がいかに腐心したかがうかがわれよう。第四節では、三十九年に愛知県で実施された大規模な町村合併について 安城町と新しい桜井村の成立に関わって起きた係争の事例、碧海郡で人口・戸数とも最大規模となった安城町の区の規定、そして安城町の小学校の統合・学区改正に関する資料を収録した。ここでは、町村合併の実施が地域社会に引き起した問題を照射することに留意した。

  

 第3章 「日本デンマーク」農業の成立と展開

 日本デンマークという言葉は、碧海郡地域をデンマークになぞらえたものであり、大正中後期から昭和戦前期にかけて、碧海郡だけでなく全国的に流布・喧伝された。いうまでもなく、農業先進国であるデンマークと碧海郡農業・ 農村の実態との間には大きな懸隔があったが、しかし、日本デンマークという言葉は当該期における日本農業・農村社会の発展の可能性に向けた期待を含意するものとして普及していった(「一九二〇~三〇年代における『日本デンマーク』をめぐる言説(1)(2)」『安城市史研究』第5・6号)。第三・四章では、このように安城町を中心とする碧海郡地域が、日本デンマークとして最も強く表象された時期における、農業・社会・思想・教育・政治などの諸領域に関する資料を収録する。まず第三章では農業分野を対象とし、日本デンマーク農業の実相に迫っていきたい。
  第一節では、この時期の碧海郡農業に開する概括的資料を収録した。本節の位置づけは、収録資料を素材として、本書で使用する日本デンマーク農業という用語の意味内容を確定することである。第二節では、米作、養蚕、園芸農業に関する資料を収録した。ここでは、とくに農業団体、すなわち産業組合(米作))・碧海郡養蚕同業組合(養蚕)・ 碧海郡園芸組合聯合会と安城梨業組合(園芸農業)の機能を重視し、その実態を示すことに力点を置いた。第三節では、養鶏業について、本市域をふくむ碧海郡における発展過程、鶏卵販売方法の変遷、そして産業組合の養鶏関連事業に関する資料を収録した。碧海郡の養鶏業は、園芸農業と同様に、東京をはじめとする大都市消費市場への販路拡大と結びついて発展した。本節では、こうした側面を積極的に示すために、一項を設けて東京市場への鶏卵販売方法の変遷を跡付けた。 第四節では、米麦・養蚕に加え園芸・養鶏などの諸部門を含んだ複合的・多角的な農業経営-「多角形農業」-に関する資料を収録した。とくに昭和初期における模範的な複合的農業経営の事例は、本市域の農業の先進的性格を端的に示す資料である。第五節では、農村経済更生運動の展開過程と、農業・農村諸組織を通じた共同化・組織化の実態に関する資料を収録し、昭和恐慌に対する本市域の対応を照射する。

  

 第4章 「日本デンマーク」の社会・教育・文化

 日本デンマークという言葉には、単に農業の生産・流通に関わる内容だけではなく、農村社会=地域社会に生きる人びとの生活と文化の向上・発展を目指すという視点が込められていた。そして現実に、第一次世界大戦(大正三~ 七年)後から昭和初期にかけての碧海郡においては、新たな思想の諸潮流が出現するとともに、農村文化の向上や生活改善を求める実践活動が活性化し、農村振興・農村改造を希求する動きが満面開花した。そして、こうした営為は、 社会的・政治的な運動によって農村社会の諸問題を解決しようとする志向を徐々に生み出し、最初の男子普通選挙による衆院選(昭和三年)への山崎延吉の立候補を契機として、本格的に政治化するにいたる。また教育の分野でも、 地域社会振興のための担い手を養成すべき施策や教育実践がさまざまなかたちで行なわれた。第四章では、こうした 日本デンマークの社会諸領域に関わる分野について、四節に分けて資料を収録した。
  第一節では、この時期の新たな思想の諸潮流や、農村文化や生活改善の動きに関する資料を収録したが、こうした動向にとって、山崎延吉の影響力はすこぶる大きかった。そして第三節では、農村振興の実現を目指す社会的・政治 的運動に関する資料を収録したが、こうした政治的運動は山崎の衆院選立候補・当選によりピークを迎え、そして山崎の政界離脱によって終息していく。また山崎は、第二節で取り上げた農村部で唯一ともいえる女子専門学校-安城 女子専門学校-の校長に就任している。このように、本市域の地域社会振興を求める動きにとって、山崎延吉は重要な存在であった。では、昭和六年(一九三一)九月に始まる満州事変は、本市域にどのような影響を与えたのか。こ の点について、軍事と教育に関する資料を収録したのが第四節である。たしかに事変の勃発は、青年層を主なター ゲットとして「国民精神」・「国体観念」の醸成を通じた社会の軍事化を強めるとともに、事変への積極的・自発的支援の動きを生み出していった。とはいえ、小学校の労作教育・郷土教育の実践例にみられるように、この段階では地域社会が戦時色で一色に染め上げられていたわけではなく、いわば過渡的な様相を示していたといえよう。

  

 第5章 戦時下の安城

 本章では、昭和十二年(一九三七)七月に始まる日中戦争以降の戦時体制の時期、庶民の生活・教育・農業に対して統制が強化されていく様相、また戦争末期の重大問題として軍需工場・海軍航空基地・地震被害の資料を収録した。 十二年七月から翌年一月にかけて政府は、国民精神総動員運動、輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法・軍需工業動員法適用法の公布、十三年度物資動員計画の決定とあいついで重要施策を決定・実施し、十三年四月には国家総動員法を公布して、国家総力戦体制の構築を急ぐ。十四年九月には第二次世界大戦が勃発。
 十五年には、「新体制運動」を提唱する近衛内閣が大政翼賛運動を開始する。中央から末端まで上意下達の組織体制を築き、日常生活の刷新、勤労奉仕、食糧増産などのスローガンを掲げて運動を推進した。同年十月には砂糖・マッチの配給・切符制が全国で実施される。十六年八月には金属類回収令を公布、十月、東条内閣が成立、十一月には国民勤労報国協力令を公布し、 一四~四〇歳の男子、および一四~二五歳の未婚女子に勤労奉仕義務を課す。そして、十二月八日、太平洋戦争開戦。 その後も、あらゆる領域で統制と動員は強化される一方であったが、それも限界にぶつかり、やがて破綻する。
  国家総力戦段階の戦争遂行には、前線での戦闘に直接必要な動員とともに「銃後」の民衆をも総動員する体制の構築が必要となる。それが各地域の行政の重要任務となる。第一節では、大政翼賛会安城町支部や部落町内会などの行政組織と住民末端組織の実態を示す資料を掲載した。第二節では、かつて日本デンマークの象徴的存在となっていた丸碧聯合会が解散に至る過程で産業組合中央会が深く関わっていたこと、また食糧増産という国家的課題のために本市域の農業と農民が対処していった様相を示した。教育面でも、初等・中等・女子教育や青年学校において、「御真影」奉安殿の設置、少国民の育成など国家の要請が、学校現場にもたらしたものを第三節に示した。第四節では、三 河地震など戦争末期の本市域における重要テーマ三つに関わる資料を示した。
  なお、第一節の[184]と第二節の[200]は、同一資料を、テーマに応じて分けて掲載したものである。

 

 

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