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更新日:2018年2月16日

新編安城市史10資料編「考古」

  解説    はじめに / 利用の手引き / あとがき

 《章解説》 第1章 / 第2章 / 第3章 / 第4章 / 第5章 / 第6章

  

 はじめに

 市史編集委員(考古部会長)  加 納 俊 介 
      同     (考古部会)  山 本 直 人 
 

 『新編安城市史10 資料編 考古』は、市史編さんの基本方針に基づき、全国の自治体史を参考にしながら、新たな試みと工夫を加えて、編集を行ってきました。それらの点 について市史編さんの基本方針の項目ごとに説明します。

 基本方針1:市民の理解と協力により、市民に親しまれ、活用される市史の編さんを目指すとともに、近年の研究成果を踏まえた市史とする。
  第一に、安城市民のための市史であることを念頭において、文章は平明・簡潔で、読みやすいものとなるようにしました。
  第二に、写真や図表をたくさん入れて、親しみやすくしました。開いたときに文字ばかりにならないよう、見開き2ページのうち1ページ分は、できる限り図表や写真が占めるようにしました。
  第三に、オールカラーにして、見て楽しいものにしました。編さん事業が始まった当初、資料編考古は白黒で、口絵のみカラー写真を掲載する計画になっていました。情報機器やデジタル技術の発達に伴い、印刷技術は日進月歩の発達をとげており、複写機にしてもカラーコピーが普及している時代でもあります。このカラー化の傾向は一段と加速化することはあっても、白黒化に逆行することはないと考えられます。オールカラーで刊行されている自治体史はまだ少ないですが、それを参考に、色調や配色を考えました。

 基本方針2:現在の安城市域を主な対象としながらも、より広域な旧碧海郡・西三河を視野に入れた市史とする。
  今回の資料偏では、特論の中で一部旧碧海郡・西三河を視野に入れた検討を行っていますが、十分とはいえません。平成18年度発刊予定の通史編において、旧碧海郡・西 三河を視野に入れた考察を積極的にしていきたいと考えています。

 基本方針3:安城に暮らす市民一人ひとりにつながる歴史と、風土の特質をとらえた市史とする。
  考古学は土地と結びついた学問です。したがって考古学における地域研究の重要性は、 もっと主張されてよいと考えます。その意味でも『安城市史』編さん事業は、考古学における地域研究の実践という点で、またとない機会です。まず今回の資料編では、考古 学的な事実を正確に把握することに努めました。さらに通史編では、その分担は主に原始に限られていますが、資料編とあわせて土地に即した考古地域史を目指して、生き生きとした地域史の歴史叙述を行うよう努力するつもりです。それには、古墳時代でいえ ば、前半期には三河でも有力な桜井古墳群が造られるのに、豊田・岡崎両市とも数百基の小円墳が造られる後半期には、なぜ安城には数十基しか造られないのかという地域的な問題などを重視していきたいと考えています。

 基本方針4:市史編さん事業を契機に、資料を広範囲に収集・整理し、その保存を通して活用の便を図り、地域の研究に役立てる。
  市域には多くの遺跡があり、考古学的な調査研究も長い歴史をもっています。しかし活動をはじめてみて、過去に発掘・採集されながら未報告の資料や、古墳・寺院跡・城館跡などで測量が必要なものが、予想外にたくさんあることがわかりました。そこで考古部会の活動としては新たな発掘調査は実施せず、未報告資料の整理や古墳・寺院跡・ 城館跡の測量調査、および各種考古資料の集成を行いました。本資料編はそれらを踏まえて、主要遺跡の解説とともに、ほかの市史に比べて格段に多い特論を設けて、単なる概要報告書に終わることなく、わかりやすく利用しやすい工夫をしました。

  平成16年5月

  

 利用の手引き

 市史編集委員(考古部会長)  加 納 俊 介 
 
収録する資料 歴史の資料には文献資料・物質資料・伝承資料という、全く性格の違う3つのものがあります。本資料編には、このうちの物質資料から民具などを除いた、考古資料を収録しています。
  それでは〈考古資料〉とは何かといいますと、『日本考古学事典』(三省堂、2002年) では、「遺跡とそれを構成する遺構や遺物、さらにそれをとりまく環境要素など、過去の人間活動の所産やそれに関連するものすべて」としています(文献589)。そこにある〈遺跡〉は「地球上に残る過去の人間活動の痕跡」をいい、〈遺構〉は建物・墓・溝 などの過去の人間活動の不動産的な所産、〈遺物〉は道具・器・装身具などの動産的な所産をいいます。また〈過去〉の範囲は、一般には文献が全くない時代か、あっても乏 しい時代と誤解されていますが、本来は一切の制限がありません。そのため本資料編でも、一部ではありますが近世・近代の考古資料を収録しました。一方、木簡・墨書土器などの文字を有する考古資料については、『新編安城市史5 資料編 古代・中世』の方に 収録しています。
  本資料編では、市域の考古資料の全般的な集成を目標としました。そのため考古部会の活動としては新たな発掘調査は実施せず、古墳・寺院跡・城館跡の測量調査、未報告資料の一部整理作業、および各種考古資料の集成を行い、その成果を本資料編に収録しました。また、すでに発掘調査報告書などで公表された資料については、その要説を収録しました。 なお最近の愛知県埋蔵文化財センターや市教育委員会の発掘調査において、重要な発見が相次いでいますが、大半が未報告ですので、これについては概要の紹介にとどめざるをえませんでした。

資料編の構成と特色 残念ながら十分な内容をもって記載できる遺跡がそれほど多くないので、各種考古資料の集成を公表する目的で、ほかの市史に比べて格段に多い特論を設けました。そして、まず資料を時代順に大別し、つぎに主要遺跡と特論に中別した後、 各項目をできるかぎり偶数ページにして、半分は図や写真とするように努めました。ただし遺跡には単一の時代だけの単純遺跡と、縄文時代・飛鳥~奈良時代・鎌倉~室町時代といった具合に、いくつもの時代の人の活動の痕跡が重なっている複合遺跡とがあります。後者については、同一遺跡の資料を時代別に分けて収録しました。

  個々の〈遺跡〉の記載にあたっては、立地・時期・発見(沿革)と調査・遺構・遺物・遺跡の特徴・現状・文献・関連項目の小見出しを設けて、遺跡の内容を把握しやすいようにしました。
 [立地]では、立地、遺跡の標高と水田面などとの高低差、周辺の同時代遺跡のほか、 目印になる小学校・駅・橋などからの方向と距離を記述して、遺跡の位置を明示しました。位置図は遺跡踏査の際の便宜を考えて、1 / 5000 の縮尺を原則として、台地をベー ジュ色、川は水色、当該遺跡の範囲をピンク色、調査区を赤色で色分けしました。また 周辺の遺跡は、その範囲を赤線で囲んで示しました。ただし古墳については、当該古墳を緑色、周辺の古墳を黄緑色に色分けして示しました。
 [時期]では、小片でも土器類が出土している時代は、すべて時代順にあげました。さらに時代を分ける時期がよくわかる場合には、弥生時代前期・古墳時代後期などと記述 しました。なお寺院跡・城館跡については、その存続時期を太字にして明示しています。
 [発見と調査]では、その遺跡がいつごろ発見され、いつ・どのような関連で発掘調査や測量調査が行われたかを記述しました。  ただし寺院跡・城館跡については[沿革と調査]に換えて、文献等で知られてきた情報を述べました。
 [遺構]では、発見された遺構の種類別に1・2を選んで特徴を説明しました。その際、 最近の発掘調査報告書で多用されるSB06などの記号表記は、竪穴住居6号などにわか りやすく置換しました。
 [遺物]では、出土遺物の種類とその特徴を概説しています。しかし弥生時代後期~古墳時代前期については、沖積低地に一大遺跡群が形成されることを重視して、ほかの時代より少し詳しく記述しました。
 [遺跡の特徴]では、遺跡のもつ学術的重要性を述べ、[現状]では、遺跡の現状とともに史跡指定の年月なども示しました。
 [文献]では、発掘調査報告書など主要なものに限って巻末の「文献目録」の番号と書名を、ほかのものは番号のみを掲げました。なお本文中にも番号のみを記しました。 [関連項目]では、同じ遺跡の資料を別の時代に分けて収録した場合や、関連する特論 の項目を掲げて、容易に検索できるようにしました。
 〈特論〉で取り上げた項目は、前記しましたように、多くが各種考古資料の集成結果を提示するものです。その記載にあたっては、あくまで資料集成とその説明を基本として、 関係する用語の解説、若干の検討と分布図を加えました。このうち原始の顔と墓制は、 関係資料を時代別に分けて収録したため、とくに前後の変化がわかるような叙述を付加しています。

  一方、資料集成以外の項目には2種のものがあります。1つは、市内の遺跡出土土器が基準資料となっている桜井式土器と古井式土器です。これについては、研究史と新資料による解説を記述しました。もう1つは、各時代の加速器質量分析法による放射性炭素年代測定です。考古資料の年代には相対年代と絶対年代とがあります。相対年代とは序列による年代であり、その序列を表としたものが編年表です。しかし歴史研究には具体的な数値で示す年代=絶対年代が必要です。 本文中にはこれまでの研究成果に基づ いて、今から何年前、あるいは西暦紀元前・紀元後何世紀と具体的な数値をあげていますが、残念ながらそれが本当に正しい年代=実年代・暦年代とは言いきれません。それでより正確な年代の追求を目的に、各時代の資料について最先端の加速器質量分析法による放射性炭素年代測定を行いました。この項目はその結果を提示したものです。
  なお引用・参考文献については、主要遺跡での記載に準じて、巻末に一括して掲げて番号を付し、本文中にはその番号のみを記しました。また小見出しの文献では、主要なものに限って書名と番号を、ほかのものは番号のみを掲げました。

叙述について 本資料編の叙述にあたっては、平易で明快な記述になるように努めまし た。しかし考古資料は、自らは語らない人間活動の生の痕跡であり、考古資料の史料化には膨大な研究作業が不可欠です。しかもその第一歩が分類であることから、必然的に数多くの専門的学術用語の使用が避けられません。例えば伊勢湾地方の弥生後期~古墳 前期の土器についていえば、その階層性と多様性をとらえるために、形質的特徴に基づく3段階の分類系が作り出されてきました。すなわち、第1段階として壺・甕・高杯・ 器台・鉢など、第2段階として壺でいうと広口壺・広頸壺・短頸壺・長頸壺・瓢壺・ 小型壺など、第3段階として広口壺でいうと単純口縁・内湾口縁・二重口縁・折返し口 縁の各広口壷やパレス壺・柳ケ坪型壺などです。しかも用語にはしばしば同物異名・異物同名がみられます。そのため使用する専門的学術用語については、基本的に最新の『日本考古学事典』(前出)に準拠することにしました。
  また特論で取り上げたものについては関連用語も含めてその中で、頻出する第3段階の器名や文様については巻末の用語解説で、それぞれ説明を加えました。しかしそれらは使用した用語の一部にとどまっています。そのため難解な用語についてはすべて、各項目の初出時にふりがなを振るとともに、できる限り見開き頁に図・写真とその記述をおくようにして、理解しやすいようにしました。

  平成16年5月

  

 あとがき

 市史編集委員(考古部会)  山 本 直 人
 

 2003(平成15)年5月に、「弥生時代の始まりは現在考えられているよりも500年ほど古くなり、紀元前10世紀ごろには九州北部で灌漑水田稲作が開始されていた」と、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館が発表し、新聞やテレビなどメディアで報じられました。 この研究で採用されている方法は、弥生時代の始めごろの土器に付着した炭化物、すなわち煮炊きされた食べ物のオコゲや薪のススを試料にして、加速器質量分析計で放射性炭素年代測定を行い、測定された値を西暦年代に直すという方法です。この新しい方法によって筆者らは、1990年代後半には縄文土器で測定を進めていましたが、安城市史の編さん事業に参加することになったのを機会に、この方法を弥生時代や古墳時代にも応用することにしました。市内には弥生時代後期から古墳時代前期にかけての遺跡が多く、時代の過渡期の年代を考究していくうえで有効な手段になると考えたからです。そして、中狭間遺跡や釈迦山遺跡の資料をもとに測定を実施し、2002(平成14)年3月には測定結果の予報を発表し、今回の資料編で本報告を行いました。すなわち、弥生時代から古墳時代の土器に応用してまとまった成果がえられたのは、安城市史編さん事業で実施したのが日本で最初であり、愛知県内で前方後方墳が出現する西暦年代ばかりか、弥生時代から古墳時代の移行期の実態を考えるうえで、全国的にも重要な年代値となるものです。その意味において日本の考古学史に残る先駆的な研究で、市史編さんの大きな成果であると自負していま す。それと同時に、結論を出すには測定数があまりに少なく、今後もっと測定を増やしていく必要があることも認識しており、通史編に向けてこれからも測定を進めていきたいと 考えています。

  3・4年前に考古部会では、資料編考古を冊子体だけでなく、CD-ROMを付属しようという案が提示されました。愛知県埋蔵文化財センターが刊行する発掘調査報告書には CD-ROMが付属されており、それにならったものです。また、時を前後して編集委員会の席上でも、市史を本という形だけでなく、CD-ROMで刊行した方がよいという意見が出されました。CD-ROM化の案が提出された理由はいくつかありますが、思いつくままに列挙しますと、第一に、パソコンが普及してディスプレイで見るようになってきていることです。第二に、市史は大きくて本棚で場所を取りますが、CD-ROMは小さくて保管のための場所を取らないということです。第三に、小中学校でのパソコン教育に役立てる事もできるからです。しかし、今回は予算その他の問題によりCD-ROMは付属できませ んでした。

  安城市史編さん事業が開始され、考古部会でも他の部会と同様に県内の新進気鋭の研究者を参集し、部会が立ち上げられました。若手研究者主体となった理由としましては、資料編や通史編が刊行される時に働き盛りの年齢になっていて、編さん事業とともに若手研究者も成長していってほしいという事務局側の願いもあったと記憶しています。部会員も本務に支障をきたさないよう休日を返上して、古墳や城館跡の測量調査を行ったり、遺物の実測図を作製したりして、資料編刊行に向けての準備を進めてきました。とくに、刊行年度にあたっていた平成15年度は、毎月第3土曜日に部会を開催し、部会のたびに提出された原稿を検討し、用語の統一や専門用語の言い換えについて話し合いました。どのような体裁をとれば市民の方々に理解してもらえるのかということに重点をおいて検討を重ね、資料編の執筆要領にそうような形で協議を続けてきました。しかしながら、1997(平成9)年に考古部会が発足してから7年が経過し、当時は若かった考古部会員もそれぞれの職場や地域社会で重責をになう立場になりました。そのため、組織の維持・運営や地域 社会への貢献に労力と時間をさかなければならなくなり、自分の研究時間が十分に確保できなくなってきたなかで、発刊日程と競争での編集となりました。

  最後に、責重な資料をお見せくださったり、有益なご教示をいただいた市民の方はもとより、市当局ならびにすべての関係する皆様に心から感謝の意を表する次第です。さらには、部会発足当初から今日にいたるまで格別のご尽力をいただいた市史編さん室の皆様にも、心からお礼申し上げます。

  平成16年5月

 
《章解説》

 第1章 縄文時代 概要  

 日本史において、縄文時代は旧石器時代に後続し、弥生時代に先行する時代として位置づけられている。旧石器時代と縄文時代は土器の有無をもって時代区分されているが、土器の出現がどのように革新的であったのか、十分に解明されているわけではない。また、 後続する弥生時代とは水稲農耕という食糧生産を指標に時代区分されているが、1970年代後半から1980年代前半にかけて北部九州で縄文晩期の水田跡が発見され、それを縄文あるいは弥生のいずれに帰属させるか議論が続いている。このように、現在、一般的に理 解されている「縄文時代」・「縄文文化」の概念は、ひじょうに曖昧なものである。
  年代については、放射性炭素年代をそのまま今から何年前と換算する方法を用いて、これまで縄文時代は約12,000年前から2500~2400年前まで約10,000年間続いたと考えられてきた。近年、放射性炭素年代を西暦に較正する方法が普及し、それをもとにすると、 縄文時代は今からおおよそ15,500年前から2950年前まで約12,500年間続いた時代と考えられ、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期にわけられている。この時代の文化である縄文文化は日本列島を中心に展開しており、文化内容から3期に区分することができ、第1期は縄文文化の萌芽期(草創期)、第2期は形成期(早期)、第3期は成熟期(前期~晩期)である。
  自然環境について述べると、氷河期のあとの温暖化にともない、縄文海進とよばれる海面上昇現象が進行し、早期末~前期初頭の約7200年前(従来の放射性炭素年代をそのまま換算する方法では約6000年前)にもっとも温暖化した時期をむかえ、当時の海面は現在よりも約3m高かったことが明らかにされている。その後、中期から晩期にいたっては現在の自然環境と大きくは変わらなくなった。市域および矢作川下流域を中心とした縄文時代の自然環境については、本章の特論1で詳細に述べられている。
  本章では、主要な遺跡として御用地遺跡・小薮遺跡・堀内貝塚・東端貝塚の4遺跡を とりあげ、市内各地で採集された遺物についても解説を加えている。市域の縄文遺跡の数はそれほど多くなく、草創期の有茎尖頭器が20点あまり出土しているほか、前期~中期 では遺物が少量採集されているだけである。後期末から晩期にかけて遺跡が増加するようになり、とくに晩期の堀内貝塚は当時の食生活や精神生活を解明していくうえで重要であ る。この堀内貝塚の資料を中心に、埋葬施設や出土人骨、土偶、桜井式土器など、この地域を特色づける遺構や遺物について深く掘り下げて解説している。また、放射性炭素年代測定を行い、その原理や方法、結果についても説明を加えている。 (山本直人)

  

 第2章 弥生時代 概要

 日本列島で灌漑を伴う本格的な水田稲作が始まった紀元前5~4世紀から、奈良県箸墓古墳に代表される大型前方後円墳が出現する紀元後3世紀中ごろすぎまでの、およそ700 年間を弥生時代とよぶ。ただし絶対年代は、最近の加速器質量分析法による放射性炭素年代測定の結果と大きく相違しており、今後変わる可能性がある。また弥生文化が及んだ範囲の中でも、本格的な農耕が始まった時期や内容には大きな違いがある。前期の遠賀川文化の急激な拡散は尾張平野で止まり、安城市域も含めてそれ以東には、縄文的色彩の強い条痕文文化が広まっていく。したがって本資料編では、伊勢湾地方への遠賀川式土器の波及期およびその併行期を、弥生時代の上限とした。この時代は大きく前期・中期・後期 の3期に分け、さらに必要に応じて中期前葉・中葉・後葉、あるいは後期前半・後半などと細分している。
  収録した遺跡は14か所である。市域での条痕文系土器やそれを伴う遺構は、まだ発見例が少ない。碧海台地の東に広がる沖積低地に、遺跡が広がりをみせるのは中期後葉の古井式期からであり、墓制も土器棺墓から方形周溝墓へ転換していく。後期になると、土 器は山中式・欠山式という伊勢湾地方の大様式のものとなり、沖積低地には連続して広が る一大遺跡群が形成される。しかし部分的に発掘調査が行われているだけで、個々の遺跡の範囲や消長、遺跡相互の関係など、重要な問題がほとんど解明されておらず、矢作川流域の中核ともいえるこの一大遺跡群について、現状では十分に述べることができない。本資料編を第一歩として、関係資料の集積と解析が急がれる。
  一方、弥生時代になると、第1に本格的な水田稲作が始まるが、市域では木製農具や溝状遺構以外の資料はほとんどない。第2に金属器の製作・使用が始まるが、これも銅鏃のほかは乏しい。第3に本格的な戦いが始まるが、石鏃・銅鏃や木甲・木盾、武器形木製品、 居住域を囲む環濠などが発見されているものの、数も少なくほかの資料も欠く。第4に階級社会成立への歩みが始まり、北部九州では中期に「王墓」が、ほかの西日本各地でも後期には副葬品をもつ「墳丘墓」が出現するが、市域では未発見である。そうしたなかで特論では、原始の顔関係の土偶形容器・人面文土器と線刻土器、墓制関係の土器棺墓と方形周溝墓のほか、条痕文系土器・古井式土器・銅鏃・木製品の計7項目を取り上げた。 (加納俊介)

  

 第3章 古墳時代 概要

  奈良県箸墓古墳に代表される大型前方後円墳が出現する3世紀中ごろすぎから、前方後円墳の造営が停止する6世紀終わり~7世紀初めまでの、およそ350年間を古墳時代とよぶ。前方後円墳の造営の停止後もなお100年間ほどは古墳の造営が続くが、それらは終末期古墳として区別し、時代区分としては古墳時代には含めず飛鳥時代とする。この古墳時代は前期・中期・後期の3期に分ける。なお安城市関係の発掘調査報告書では、弥生土器と古墳時代の土師器の境界を、古墳出現期の全国的な土器交流の始まりと開脚の小型器台・小型高杯の出現におき、弥生土器最後の様式を欠山式≒近畿地方庄内式前半、土師器最初の様式を元屋敷式≒庄内式後半~としている。前記した古墳時代の始まり〔布留0式〕 と明らかにズレがあるが、本資料編でもそれをそのまま採用した。
  収録した遺跡は古墳が13か所、古墳以外が7か所である。もともと安城市域の古墳総数は豊田市や岡崎市と比べるときわめて少ない。しかしそれは、後期の横穴式石室をもつ小型墳の存否・多寡によるものであり、前・中期の大型墳に限れば、桜井古墳群は西三河の有力な古墳群の1つといえる。したがって桜井古墳群中の古墳が収録した古墳の大部分を占めるが、そのほとんどが発掘調査されていないため、十分に記述することができなかった。ただ桜井古墳群以外から前期の仿製鏡や石製品が発見されていて、市域の古墳の重要さを物語っている。一方、集落遺跡の動向をみると、弥生時代後期に引き続いて、古墳 時代前期にも沖積低地に広がりをみせ、多様な外来系土器が数多く発見されている。しか し中・後期の遺構・遺物は現状では発見例が少ない。ただ沖積低地の発掘調査が部分的にしか行われていない状況では、それが〈本来の不在〉によるものか、〈いま不在〉にすぎないのか、簡単には判断できない。なお古墳時代になると、弥生時代に集落内に住んだ首長層が、集落から離れて首長居館に居住するようになるというが、市域では未発見である。
  特論では当初4項目を予定していたが、その1つの「外来系土器と土器の交流」を収録することができなかった。「陶質土器」や「釈迦山遺跡・中狭間遺跡の放射性炭素年代測定」と関連する項目でもあり、本文編などで改めて取り上げることにしたい。なお残る1 つの項目「鏡と石製品」では、古墳の分布に関しても言及している。 (加納俊介)

  

 第4章 古代 概要

 本資料編では、およそ7世紀から11世紀末までの約400年間、飛鳥・奈良・平安時代を古代とする。収録した遺跡は、集落遺跡が5か所、寺院跡が2か所である。
  安城市域における古代の遺跡分布は、これまで碧海台地の上にその中心があり、低地に古代の遺跡はあまりないとみられてきた。しかし近年、鹿乗川流域の低地での発掘調査が進むにつれ、古代の遺跡が台地上だけでなく、低地にも分布することが明らかになってきた。また市域の台地上では、豊田市梅坪遺跡や岡崎市小針遺跡のような、古墳時代後期から継続する比較的規模の大きな古代集落遺跡は確認されていない。このような集落が、むしろ低地に広がっていた可能性は十分考えられる。
 また、本章では取り上げていないが、加美遺跡や桜林遺跡のように弥生・古墳時代ほどではないが、古代の遺構・遺物が目立つ遺跡がいくつかある。例えば、桜林遺跡は多数の墨書土器が出土したことで注目される。周囲の状況について不明な点が残るが、古代の祭祀の実態を探るうえで重要な遺跡である。今後の調査および研究の進展によって、古代の遺跡として注目されることになる遺跡は増えることであろう。
  さて、古代の遺跡として最も特徴的なものに仏教の寺院と役所(官衙)がある。寺院の遺跡は、台地上に寺領廃寺と別郷廃寺が確認されている。しかし発掘調査の実施された 寺領廃寺にしても、伽藍のおおよその配置が判明している程度で、その変遷や全体の規模はまだまだ未知の部分が多い。一方で、市域は古代の三河国碧海郡に含まれるが、碧海郡の役所(郡衙)の所在は明らかになっていない。また、近年注目されるようになった遺跡 に、律令制度によって整備された古代の官道がある。その1つである東海道は、市域北部を通っていたと思われるが、官道に設置された駅家ともども明らかになっていない。そして平安時代になると、市域には志貴荘とよばれる荘園があったとされている。ほかの荘園遺跡での調査成果から、荘園には、管理の場となった施設があったと考えられる。しかしその遺跡について見当さえついていないのが現状である。役所・官道・荘園ともに、それらが市域にあったかはともかく、今後、探索を行っていく必要があろう。そして寺院と役所、あるいはそれらを支えた集落との関係や、生産の場との有機的な関係を1つ1つ読 みとっていくことで、例えば碧海郡域、さらに矢作川流域、西三河地域における古代の 「地域色」を見い出していくことが求められているのである。 (永井邦仁)

  

 第5章 中世 概要

 『新編安城市史5 資料編 古代・中世』では中世を1180(治承4)年の源頼朝の挙兵から 1590(天正18)年の徳川家康の関東移封までとしている。しかし、本資料編では、灰釉系陶器生産が確立する11世紀末~大窯製品の終焉となる17世紀初頭ごろとする。収録し た遺跡は城館が5か所、寺院境内地が2か所と石川丈山邸跡、それ以外の2か所を加えた。
  中世の遺跡で最も多いのは集落遺跡であるが、市内ではこれが不明瞭となっている。 しかし、特論で述べられているように、各地で灰釉系陶器が採集されており、これらの遺跡のほとんどが集落遺跡であったと考えられる。遺跡数は古代と比べて増大し、その分布域も矢作川流域の沖積低地とこれに接した碧海台地縁辺部にほぼ限定できる古代に比べて、碧海台地のより深部にまで拡大している。
  中世の集落遺跡は、溝などで建物群を囲み、屋敷地を形成していることが特徴となる。 古代の集落が内部の区画が不明瞭であったのに対して大きな変化といえる。建物も伝統的な竪穴住居に代わって、ほぼ掘立柱建物となる。近年、中世集落遺跡の調査事例は急速に増加しているが、市内では加美遺跡・神ノ木遺跡で知られているにすぎない。
  中世の遺跡で特徴的なものは、有力者層が築いた城館であろう。詳細は特論に記述されているように、規模の大小や構造の差はあるが、市内の各地で知られている。城館の研究は、愛知中世城郭研究会などの手により、分布調査や縄張図の作製が比較的進展している。 一方、市内で発掘調査された城館は、安祥城・東端城・木戸城・小川志茂城・岩根城の5か所が知られているが、いずれも限定された面積にとどまり、構造を究明できる程の面積を対象としてはいない。また、本證寺は周囲に壕や土塁などの防御構造をもち、城館とよく似た構造となっている。 
  そのほかでは、葬送墓制にかかわる遺構として本神遺跡などで知られる地下式坑が特徴的となる。また、市内各地に点在する石造物や、北浦遺跡の蔵骨器、加美遺跡・神ノ木遺 跡などで検出された火葬施設も知られているが、具体的には特論で取り上げている。
  中世の遺跡から出土する遺物は、ほかの時代と同様に土器類が圧倒的多数となる。市内では主体となるのが灰釉系陶器で、これに古瀬戸や土師質土器が加わり、わずかに貿易によってもたらされた青磁・白磁なども出土している。これらは土師質土器を除き生産地の認定が比較的容易で、物資の流通状況を知る好例といえる。また、これに関連する遺物と して、銭貨も出土しているがこれについても特論で集成している。 (池本正明)

  

 第6章 近世・近代 概要

 『新編安城市史』の時代区分では、近世を1590(天正18)年の徳川家康の関東移封後から 1871(明治4)年の廃藩置県まで、近代を1872(明治5)年の廃藩置県以後から1945(昭和20)年 の太平洋戦争の終戦までとする。しかし本資料編では、大窯製品が終焉し連房式登 窯製品が登場する17世紀初頭ごろから、近世としている。
  日本史の時代区分である〈近世〉を対象とした〈近世考古学〉が提唱されたのは1969 (昭和44)年のことで、近年、都市遺跡を中心に調査研究が進展している。県内では、とくに陶磁器類について、編年および生産・消費問題の調査研究が進行している。また西三河では、豊田市挙母城・同寺部城・岡崎市岡崎城・西尾市西尾城などが発掘調査されてい る。しかし安城市域では、安城陣屋・根崎陣屋を含めて近世の遺跡が、これまで本格的に発掘調査されたことはない。本資料編には、矢作川河床から工事中に発見された御用材を収録した。
  一方、2002(平成14)年の『日本考古学辞典』をみても、〈近代〉を対象とする〈近代考古学〉という項目はない。あるのは〈産業考古学〉・〈戦跡考古学〉という項目である。〈産業考古学〉は、幕末から明治にかけて急速に進行した、近代化・産業化に関連する物質資料を調査研究の対象とするもので、1977(昭和52)年に学会が発足した。近年は〈近代化遺産〉の呼称で、江戸時代末期から1945(昭和20)年までのものについて、全国的な確認調査が始まっている。安城市域では、2003(平成15)年4月に東町亀塚の碧海台地で、大正から昭和前半まで操業していた瓦窯1基が発掘調査されているが、残念ながら収録できなかった。
 〈戦跡考古学〉は初め、太平洋戦争末期の沖縄戦の実相を考古学的手法で調査研究する分野として、1984(昭和59)年に提唱された。近年では、近代の軍事施設やその関連資料を〈戦争遺跡〉と呼び、調査研究が全国的に広がりつつある。本資料編には、太平洋戦争中に設置された明治航空基地・岡崎航空基地と、寺院から供出された梵鐘の代替品を収録した。 (神谷友和)

 

 

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