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更新日:2018年2月16日

新編安城市史8資料編「現代」

 解説    はじめに / あとがき

《章解説》  第Ⅰ部 第1章 / 第2章 / 第3章 

         第Ⅱ部 第1章 / 第2章 / 第3章 / 第4章

       第Ⅲ部 第1章 / 第2章

  

 はじめに

 現代部会長  阿 部 和 俊
 

 『新編安城市史8 資料編 現代』の編さんの経緯をここで簡単にまとめ、 資料編編さんの基本方針とその特徴について述べておきたい。
  第一回の市史編集委員会々議が開催されたのは平成9年9月23日の午後である。私は現代部会の部会長ということで出席していたが、この編集委員会において代表に選出されたため、現代部会の部会長と、市史編集委員会の委員長という二役を引き受けることになった。私は、実はこの数日前までスウ ェーデンのエーテボリ大学に出張していたのだが、帰国早々思いがけぬ大役を引き受けることになったのである。

  少し話を横道にそらすことをお許しいただきたい。私は1949年の福岡県八幡市(現北九州市八幡東区)生まれである。大学入学以来愛知県で生活するようになったが、高校生までは同地で育った。
  安城という都市名をはじめて耳にしたのは中学校の社会科の授業においてである。もちろん、「日本のデンマーク 安城」としてであった。私たちの世代が使用した中学社会(地理的分野)の教科書は、どの出版社のものであれ、「日本のデンマーク 安城」は掲載されている。それだけ重要な項目だったわけだが、本家のデンマークのことは何も知らないのに、日本のデンマ ークとして教えられ、勉強したのは、今思い出しても愉快ではある。
  大学卒業後も縁あって愛知県で生活するようになり、また専門の研究をするにつれて、「日本のデンマーク」というのは既に大正時代に与えられていた呼称だと知って驚いた記憶がある。中学校の先生はそのことをちゃんと教えてくれたのだろうか。記憶にない。

  ところで、私は2つの市の市議会史とある病院の病院史の編さんに携わったことはあるが、市史というものに真正面に取り組んだことはなかった。自分の年齢を考えれば、自治体史への関与は、この安城市史が最初で最後であろう。私にとっても思い出深い仕事である。
  さて、現代部会としての活動の滑り出しは決して順調なものではなかった。 2名のメンバーの離脱、前田晶子・北川博史両協力員の転勤、岩崎正弥編集委員のフランスヘの留学(2年間)、新しく加入したメンバーの再離脱というように、いわば予期せぬハプニングの連続であった。
  部会としてはほぼ機能不全に近い状態であったといっても過言ではなかったが、この危機を乗り越えることが出来たのは、寺本潔・伊藤貴啓執筆委員、杉山恭子協力員、途中から参加していただいた松田京子・西村正広執筆委員、古河史江協力員らの多大なご支援のおかげである。さらに、転勤されても引き続き協力していただいた両協力員のおかげである。また、歴代の編さん室長以下の事務局の方々の獅子奮迅とも言える活躍がなければ、到底期限内に刊行することはできなかった。改めて厚く御礼申し上げる。

  数次にわたって開催された編さん委員会や部会での最も重要なコンセプトは「市民に親しまれ、読みやすく活用される市史を編さんすること」というものであった。本棚の飾りになるような市史はつくらない、というものであった。しかし、だからといってレベルの低いものでよいということではない。 学問的なレベルにおいても自信をもって世に送り出せるものを目指すことは 当然のことである。
  機能不全的とはいえ、調査研究活動は動きはじめていたが、大きな問題として、何を柱として全体構成を考えるかということがあった。戦後を主たる対象とする現代部会としては、「日本のデンマーク」を唯一の拠りどころとして資料編を作成することはできないだろうという結論にいたった。初期段階の合意事項は、資料編は項目別にまとめるが、通史編は編年体でいくという程度のものであった。とにかく資料入手とその整理は始めておきたかった。

  それでも全体構成、つまり目次がなければ作業を進めることができない。 そこで最初に阿部が提示した案は、
新編安城市史現代(資料編)目次、

第1章 面積・人口  第1節 面積  第2節 人口

第2章 行財政         第1節 行政  第2節 財政  第3節 選挙  第4節 町名変更
                              第5節 町村合併  第6節 都市計画  第7節 都市化

第3章 産業経済      第1節 農林業 第2節 工業  第3節 商業・金融

第4章 交通・通信   第1節 交通、運輸  第2節 通信

第5章 労働          第1節 労働力 第2節 労働組合と労働運動

第6章 市民生活      第1節 家計  第2節 住宅  第3節 保健  第4節 消防
                              第5節 警察  第6節 公共施設  第7節 市民運動

第7章 災害・公害   第1節 自然災害  第2節 公害  第3節 公害行政

第8章 教育・文化   第1節 戦後混乱期の教育事情  第2節 学校教育 
                              第3節 幼児教育  第4節 社会教育  第5節 文化活動

というものであった。基本的な項目は網羅されているが、これでは「市民に親しまれ、読みやすく活用される市史」になれそうにはない。

  この状況を大きく変えてくれたのがフランス留学から帰国されて再参加していただいた岩崎編集委員である。岩崎編集委員の発案によって先の構成は、 ここに完成品として刊行されているように、統計資料を中心としたⅠ部(安 城市の姿)と文書資料を中心としたⅡ部(市民生活の諸相)、Ⅲ部(日本デンマークの戦後)に再編された。このアイデアによって、資料編現代は格段に読みやすく、活用しやすく、個性豊かなものになったと言えよう。Ⅰ部の 統計資料でまず安城の全体像を把握してもらい、Ⅱ部、Ⅲ部の文書資料で、 より深く安城を理解するという仕組みになっている。重要な資料に付記された解説が理解をより助けるはずである。「市民に親しまれ、読みやすく、活用される市史」という目的は相当程度実現されたものと自負している。

   平成18年6月

  

 あとがき

 現代部会編集委員  岩 崎 正 弥
 

 資料編であるからには、網羅的な事典の役割をもたせなければならない。
しかし、「市民に親しまれる市史」「読みやすい市史」という編さん方針に向き合えば、事典的な役割を放棄せざるをえない。このはざまで、私たち現代部会はずっと揺れ動いてきた。一見相反する要請に思える両者を、なんとか調和させようとした試みが、今回の資料編であった。
  この試みが成功したか否かは、安城市民の皆さまをはじめ、本書を手に取られた読者お一人おひとりの判断を待つしかない。けれども、統計資料を充実させつつ、文書資料をも可能なかぎり収録したこと、従来脇役の感が強かった「教育」「福祉」「家族女性」等を前面に出したこと、制度史的な資料よりも、市民生活の暮らしぶりや市民意識がわかる資料を充実させたこと、また全体史のミニチュア版となりがちな地域現代史に特色をもたせるため、 「日本デンマーク」という観点からも資料を採録したことなど、多少なりとも、親しみやすさや読みやすさに貢献できたのではないかと考えている。

  一般に、現代史への関心は、同時代史の叙述として始まったばかりである。 現状では、現代史に対する歴史認識はもちろんのこと、その資料の扱い方さえ確立していない。従来は、現状分析の一環として、隣接諸分野それぞれの観点から現代史を叙述してきた。そのため、私たち現代部会もほとんど隣接諸分野の委員で構成されている。こうした事情を反映して、私たちは、まずは何が現代史を構成する資料になりえるのか、その媒体を何にとるのか、 という原点から議論を行わざるをえなかった。いわば白紙の状態から出発したわけだが、委員構成の特色もあってか、ある意味歴史学の常識に縛られることなく、比較的広範に資料収集を試みることができたように思う。
  ただ、それが十分、本資料編に反映させられたかどうかは別問題である。 たとえば、多くの方々へのヒアリングの結果を資料として掲載できなかった。 諸団体のOB座談会を開き、そこでの意見交換をそのまま資料化するというアイデアも、実現できぬままに終ってしまった。あるいは、膨大な興味深いチラシ類や、貴重な個人的証言である日記類も十分に活用できなかった。個人情報保護や自治体史という性格上の制約もあるのだが、資料編が現代部会の手を離れるにあたって、やりそこねた仕事のほうが気になってしかたがない。この点も、読者諸氏の忌憚なきご意見を期待したい。

  さて、資料編の刊行に際して、あらためて痛感することは、現代史の面白さと難しさとである。時代が近いだけに、いま・ここを生きる多くの人たちの生きた貴重な証言がある。そうした経験に裏打ちされた証言が重要なのはいうまでもない。ただ、経験や証言が事実の一面を表すとしても、つねに真実であるとはかぎらない。では、多くの事実の断片を重ね合わせれば、現代史の真実が見えてくるのかといえば、これまた一つの物語でしかないのかもしれない。

  「親しまれる市史」「読みやすい市史」という要請に応えて、本編は(とり わけ第Ⅱ部以降)ある物語に沿って資料編さんをしている、という事実はまぬかれない。しかしあえて開き直れば、私たちは誰一人例外なく、それぞれの物語を生きているだろう。その意味で、読者の皆さまには、389の諸資料を互いに関連させて読みながら、安城現代史の幾つかの物語を体感していただければ、私たちにとっては望外の喜びである。
  このような資料編ではあるけれど、最終的なかたちにまとまるまでには、 じつに長い時間がかかった。平成9年に立ち上げられた現代部会も、すでに9年近い月日が経過したことになる。この間、転勤や就職、結婚等で、途中 何度も、委員の交代があった。そうした現代部会の危機が崩壊にいたらなかったのは、委員からの難しい注文に東奔西走し、労を厭わず地道な仕事をやり続けてくれた、事務局の力による。また、お忙しいなか、聞き取りや資料調査等に時間を割いて協力してくださった、安城市民の多くの皆さまにも、 一人ひとりのお名前は挙げられないが、この場を借りて厚く感謝申し上げたい。
  冒頭書いたように、本資料編は、事典的な役割をもちつつも、読める資料編を意図してつくられた。多くの市民の皆さま、とりわけ中高生に活用していただけることを心から願ってやまない。

   平成18年6月

  

《章解説》

 第Ⅰ部


 第1章 「人口・市制」解説  

 安城市の市域面積は1952(昭和27)年の市制施行時には39.95平方キロであったが、 1955(昭和30)年の市町村合併の結果、65.12平方キロにまで拡大した。その後、 1967(昭和42)年の桜井町との合併などを経て、2005(平成17)年現在では 約86.01平方キロとなっている。

  人口は市制施行時の1952年には37,704人であったが、その後の合併なども影響し、1955年には52,820人へと増加した。桜井町との合併前には69,829人 を数え、合併後は84,074人へと急増した。その後も増加傾向は維持されており、1972(昭和47)年には10万人を超過し、2006(平成18)年3月現在では 172,630人を数える都市へと成長している。人口増加は社会増加とともに自然増加によってももたらされた。
  社会増減について、都道府県別転出者数の推移をみると、2000(平成12) 年には転出者数が7,212人を数えるが、その多くは愛知県内への転出者によって占められている。その一方で、都道府県別転入者数の推移をみれば、 2000年における転入者数は8,087人を数え、入超となっている。また、近年では外国人登録者数も増加しており、2000年には3,183人を数えるに至った。 このような人口増加は、安城市における人口密度の高さにも影響しており、 2004(平成16)年現在における人口密度は1,963.6人/㎢を示し、これは全国 平均である340.4人/㎢(平成12年)と比べると約6倍である。
  流入人口総数と流出人口総数から安城市の中心性の程度を理解することができる。 2000年における安城市内での通勤・通学者数は96,636人であるが、 そのうちの44.8%にあたる43,291人が安城市以外の市町村から日常的に通勤・ 通学を行う人々である。その一方で、安城市に常住する人々のうち40,495人 は安城市以外への通勤・通学者であり、安城市外から日常的に流入する人々と安城市外へ日常的に流出する人たちの数はほぼ拮抗している。このことから、安城市においては職住近接の生活を営んでいる市民がほぼ半数を占めるものの、ベッドタウンとしての性質を有する一方で、現在では周辺からの人口を吸引する中心地としての性質も併せ持っていると考えられる。このことは、人口集中地区の面積の拡大にも反映しており、安城市における人口集中地区面積は2000年には16.37平方キロに拡大している。

  安城市の産業別就業者数を経年的にみると、1955年には第1次産業就業者が最も多く、全体の41.9%を占めていたが、高度経済成長期に入ると、第2次産業就業者が急増し、工業都市としての安城の姿が出現した。1970(昭和 45)年において第2次産業就業者数が全就業者数に占める割合は50.3%とな り、1990(平成2)年以降も50%前後のシェアを有していた。最近では、サービス経済化の影響もあり、次第に第3次産業就業者の割合が拡大しつつあるが、いまだに安城市は第2次産業就業者の多い市であることに変わりはな い。

  安城市の成長とともに、行政機構も変化してきた。 1952年の市制施行当時 は農業委員会を含む2委員会と市議会、さらに市長以下17課によって組織さ れていた。 1962 (昭和37)年には、消防課が消防本部として独立したものの、 1967年の桜井町合併時までは大きな変化はなかった。しかし、合併後の1968 (昭和43)年にはそれまでの課は、総務部、経済厚生部、建設部の3部を中 心に再編され、現在の行政組織の原型が形成された。
  安城市の一般会計歳出額の推移をみると、市制施行後、次第にその規模を拡大しており、2003(平成15)年には総額で498億円余りとなっている。一般会計を支える市税総額も人口増加とともに拡大しており、2003年には309 億円余りを計上するに至った。市税をはじめとした自主財源の一般会計歳入に占める割合は76.0%にものぼる。

  安城市は市制施行以降、土地区画整理事業を積極的に展開しており、これまでに市が施行主体となった事業は予定のものまで含めて14件、組合によるものが4件ある。また、安城市の都市化にともない中高層建造物も増加した。 1974(昭和49)年には7階建ての建物が1棟であったが、2004年には22階建ての建物も1棟存在し、中高層建造物は1,574棟を数えるまでになった。都市化にともない、インフラの整備も進み、都市ガスの普及率は1968年には 17.5%であったが、2000年には59.2%にまで上昇した。一方、電力の使用量も増加しており、1972年には電灯が56,646MWh、電力が432,396MWhであ ったが、2003年にはそれぞれ337,269MWhと1,241,204MWhにまで増加している。

  

 第2章 「産業経済」解説

 1960年代、安城市においては兼業化が進展し始めた。その傾向は1970年代に第2種兼業農家数の増加となって現れ、1975(昭和50)年には全農家の4分の3が第2種兼業農家となった。 1980年代は第1種兼業農家数の減少が依然として続いた。 1990 (平成2)年に農業センサスの農家の定義が変わったため、それ以前との比較には注意する必要があるが、1990年代に限ってみる と、第一種兼業農家数の減少が続き、地域農業の担い手が限定されてきたことが読み取れる。その一方で、経営耕地面積は1960年代に増加した後、減少に転じたが、その減少率は農家数と比べて緩やかであった。このことは安城 市における農業が、都市化の中で離農・兼業化が進展する一方、地域農業を維持する仕組みを、水田を中心とした土地利用型農業によって培ってきた現れといえよう。

  安城市における農業産出額の推移をみると、1970年代の石油危機時の農産物価格の上昇にともなって産出額が大幅に伸びたが、その後、1980年代後半から減少していった。それは、米と畜産、とりわけ採卵鶏による産出額の減少によるところが大きい。他方、野菜・果実・花卉の産出額は1980年代から 90年代にかけて伸びたものの、その後は産出額を減少させてきた。この結果、 農家一戸あたりの生産農業所得も近年、大幅に落ち込んでいる。また、1980 年代以降、麦類やいも類などの産出額が伸びているのは、米の生産調整にともなう転作作物として栽培されるようになったためであろう。このように、 安城市の農業は畜産の産出額の低下とともに耕種農業への比重が高まった。
  農家における農産物販売金額についてみると、1960(昭和35)年には50万 円未満の農家がほとんどであった農家群が徐々に分化していく状況が理解できる。地域的にみると、2000(平成12)年における販売金額の高額層はかつての矢作町・桜井町・明治村に集中している。このような動向は、安城市における都市化とそれにともなう兼業農家群が輩出する一方で、地域農業の担い手の形成もみられたことを示している。また、集落農場構想の下で、このような地域農業の担い手の多くに耕地が集積しつつあることが理解できる。
  基幹的農業従事者数の変化をみると、1960年から1970(昭和45)年にかけて地域農業の担い手は、男性の壮年層から女性男性ともに60歳以上の層へと変化した。この傾向は近年まで続くものの、新たな変化もみられる。 1990年 と2000年には全体の就業者人口は減少するが、男子の就業人口の割合が高まっていることと、30歳未満の階層の実数が2000年では1990年と比べて、わずかとはいえ増加しており地域農業の担い手として若年層の流入がみられたことである。

  安城市は高度経済成長期を通じて工業都市としての姿も見せるようになっ た。工場誘致条例が制定された1960年以降、安城市の工業は急速に発展し、 1968(昭和43)年には工業従業者数が20,000人を超過し、製造品出荷額も 1,000億円台を計上するまでになった。その後、1990年代初めまで従業者数、 製造品出荷額ともに増加傾向にあったが、近年では大きな変化はみられず、 依然として安城市は工業都市としての機能を有していると考えられる。
  事業所数の推移から安城市の工業を概観すると、1960年代には繊維工業を中心とした業種構成であったが、高度経済成長期以降は輸送用機械などの機械工業が主たる業種となり、重化学工業化が進んだ。従業者数も事業所数の動向と同様に、1960年代には倉敷紡績を中心とした繊維工業が安城市の工業を牽引していた。 1970年には、繊維工業から機械工業へと、安城市における工業の牽引役は変化し、現在では、全体の工業従業者数のうち、約半数が輸送用機械器具工業に従事している。
  工業都市として発展を遂げた安城市は、1990年代以降、工業用地の拡大は顕著にみられなくなったが、近年でもほとんど工業用地面積の減少はみられず、依然として工業の盛んな都市であることに変化はない。
  主要誘致工場一覧によれば、工場誘致条例制定以降、様々な業種の企業が 安城市を立地先として選定したことが理解される。このなかでも大規模な工場には自動車工業に関連したものが多い。とくにトヨタ自動車の協力企業に よって構成される協豊会に所属する企業は、市内に7社12工場が立地している。現在、安城市内の主要工場は自動車工業に関連した工場が多数を占め、 機械工業は西三河地域の自動車工業の基盤的な産業である。その一方で、家具工業や煙火(花火)工業などの地場産業を担う工場も市内に存続している。

  都市人口の増加にともない商業機能の充実も著しかった。 1958(昭和33)年以来、卸小売業の商店数、同従業者数とも増加してきたが、1990年代に入って小売商店数は減少傾向にある。しかし、従業者数は依然として増加傾向にあり、このことは1商店あたりの規模が拡大してきたことを意味する。

 
 第3章 「市民生活」解説  

 安城市の消費者物価指数は、1982(昭和57)年までは東京都区部に比べ、 約1割低く、同年の消費者物価指数は89.6を示す。とくに、住居費や家賃の安さが顕著である。その後、1987(昭和62)年には、住居費や家賃の上昇がみられたが、1997(平成9)年の指数をみると、総合で98.0、住居に関しては88.1、家賃が76.4であり、家具・家事用品を除いて相対的に物価が安く、住みやすい都市であることが理解できる。

  1950(昭和25)年における1世帯あたりの人数は5.0人であったが、核家族化の進行とともに2000(平成12)年には2.98人にまで減少した。その一方 で、1人あたりの延べ面積は増加し、2000年には34.2㎡となっている。この 値は全国平均の33.8㎡ならびに愛知県の平均の33.2㎡よりも若干大きな値となっており、安城市の住宅には規模の大きなものが多いことがわかる。
  安城市は人口の増加とともに、死亡者数も増加傾向にあるが、全国の動向と同様に、その死因の多くは癌や心疾患、脳血管疾患などである。また、 1950年代には赤痢やしょう紅熱の患者も多く、死者もみられたが、近年では伝染病による死者はほとんど無く、患者数も大腸菌感染症の17人を除いて、 伝染病の発生はみられない。安城市の出生数と出産施設についてみると、 1960年代後半から毎年2,000人程度の出生数があり、1973(昭和48)年には 2,462人を数えるまでに増加した。近年では毎年、2,100人前後で推移している。

  安城市では急速な都市化のもとで都市基盤も整いつつある。下水道整備は 2003(平成15)年度において市域の1,424haが整備されているものの、整備 率は50.1%にとどまっている。
  人口増加にともない、ゴミの量も増加傾向にあり、2000年にはこれまでで最大のゴミの量となり、71,819tが排出された。しかしながら、その後、ゴミの減量化に取り組んだ結果ここ数年は減少傾向にあり、2003年には65,524t にまで減少した。

  安城市の火災発生件数は1970年代には年間100件を超える年もあったが、 最近ではほぼ70件前後で推移している。最近では建物の火災とともに車両火災も多く、2003年には18件の車両火災が発生している。火災による犠牲者も毎年数人程度みられる。また救急活動に関しては、交通事故や急病による出動回数が多いが、急病による出動回数も近年増加傾向にあり、2003年におい て3,506件の出動件数を数えている。また、1997年以降、交通事故での出動件数は増加を続け、2003年には990件を数えるまでに増加した。出動回数の増加は交通事故の発生件数の増加傾向を反映しており、2003年における交通事故は物損事故が6,607件、人身事故が1,506件を数える。とくに交通事故の発生する場所としては国道1号線があげられ、2003年には国道1号線における事故により4名が命を落とした。

  安城市では刑法犯罪件数は増加傾向にあり、1999(平成11)~2003年にか けて29,472件の犯罪が発生している。しかしながら、検挙率は年々低下しており、解決が難しい事件の多いことが読み取れる。とくに窃盗事件が多く、 上記年間の犯罪件数のうち89.7%にあたる26,446件が窃盗事件である。

  新幹線による騒音振動はかつて大きな問題であったが、1998(平成10)年以降、新幹線の高速化とともに列車速度は上昇しているものの、列車の構造改善や防音工事などにより環境基準をおおむね達成している。一方、自動車騒音の方は、国道1号線を中心に環境基準を超える騒音が計測されており、 とくに、国道1号線の夜間の騒音は1979(昭和54)年の68dBから改善されておらず、2002(平成14)年には76dBを計測するなど、むしろ悪化しているといえよう。
  大気中のダイオキシン濃度は環境クリーンセンターの設置により大幅に改善されており、国の環境基準である0.5を大きく下回り、2002年の平均は0.1 にとどまる。

  公立小学校児童数の増加の第一のピークは、1955(昭和30)年にある。これは、明治村・依佐美村の一部が安城市に編入されたことによるもので、前年に比しておよそ2,100人の増加をみた。これ以降、児童数は7,000人台を維持している。その後、一時期、児童数は減少に転じるものの、1960年代には再び増加に転じた。 1975 (昭和50)年には10,000人を超過し、10,731人を数えるまでになった。 1982年には14,459人となり、これまでの最大の児童数を数えるに至ったが、その後は少子化の影響もあり、漸減している。

  

第Ⅱ部 市民生活の諸相

 

 第1章 「政治と市民生活」解説

 本章では、現在の安城市域にわたる、広い意味での「政治」的な出来事と、 市民生活の関わりを示す資料を中心に掲載した。

  まず第1節「戦争の痕跡と市民生活」では、敗戦直後からGHQによる占領が終わる1952(昭和27)年までの時期を中心に、(1)引揚げ・復員と安城、(2)占領軍への労務提供、(3)占領下の生活、という3つの観点から資料を掲載した。(1)では、旧植民地・旧占領地から安城町への引揚者の全体的な傾向を示すとともに、困窮著しい引揚者の生活支援が、町行政の大きな課題となっていたことを具体的に示す資料を選定した。また、引揚者の問題は敗戦直後にとどまらず、1950年代前半まで市民生活に大きな影を落とす問題であったことを掲載資料は物語っており、戦犯問題とともに、最も直接的な「戦争の痕跡」として存在したといえるだろう。次に(2)では、旧岡崎飛行場に駐屯した占領軍への、労務提供の実態に関する資料を掲載した。 そして(3)では占領下の日常生活がどのようなものであり、占領軍が人々の眼にどのように映っていたか、その一端がうかがえる資料を掲載した。

  次に第2節「政治の民主化と市制施行」では、まず前半で、占領下でのいわゆる「民主化」政策が、安城市域では具体的にどのように表れたのかを示す資料を掲載した。本節の冒頭に掲げた『町報』創刊に際しての安城町長の挨拶には、「新平和日本」建設に向けて、「民主文化の向上発展」を図る旨が高らかに述べられており、1947(昭和22)年当時の社会的雰囲気を端的に表しているといえるだろう。それを実践する手段として当時頻繁に開催された町民集会の様子を示す資料や、警察の民主化の目玉として実施された「自治 体警察」をめぐる攻防からは、「民主化」と「逆コース」のせめぎ合いが、 安城においてどのように展開されたのかを読み取ることができる。また、本 節の後半では、安城の市制施行に関する資料を掲載した。安城では、占領の終了とほぼ同時期の1952年5月5日に市制が施行されることになるが、当時は時期尚早論をはじめとした反対論も強かった。市制施行がどのような紆余曲折を経て施行されるのか、ここではそのプロセスを反映できるような資料を中心に、掲載した。

  第3節「町村合併と市民の対応」では、現在の安城市域が確定する過程において、大きな政治的問題となった町村合併に関する資料を、(1)東端問題、(2)矢作問題、(3)桜井町合併、と3つの地区の事例にそくして掲載した。特に(1)、(2)では、1950年代後半に激しい運動が展開され、ともに最終的には「住民投票」という形で、安城市域に属することが確定した東端地区と矢作地区を取り上げ、合併問題の発端から運動の展開過程、そして最終的な決着という動きが、具体的にどのようなものであったのかを示す資料を、当時、配布されたピラなども含めて掲載した。

  本章の最後として第4節「新幹線新駅誘致」では、1988(昭和63)年3月 に開業された新幹線「三河安城駅」の設置に関わる資料を、市役所に所蔵さ れている行政文書を中心に掲載した。名古屋―豊橋間に新たな新幹線駅を設置するという計画は、すでに東海道新幹線開業直後の1960年代後半から、西三河地域全体の課題として、具体的な陳情活動が行われ始めていた。しかし その構想が現実味を帯び始めるのは1980年代になってからであり、その時点で新駅候補地として、当初からの候補地であった幸田に加え、新たに岡崎、 安城(二本木・古井の二か所)が名乗りを上げ、最終的には1984(昭和59) 年1月に安城市二本木地区に決定するという紆余曲折を辿った。候補地決定以降も新駅の建設費用・用地買収費用などが、すべて地元負担という条件であったため、安城市には新駅設置に向けて市民の会が発足されるなど、全市を挙げての建設促進運動が展開される一方で、立ち退きを強いられることとなる二本木地区の住民を中心に、新駅設置を疑問視する意見も存在した。 このような新幹線新駅設置をめぐる長年にわたる政治的な動きと、市民の間に存在した新駅をめぐる意見の幅を、掲載資料は具体的に示しているといえよう。

 
 第2章 「学校と地域の教育」解説

 1945(昭和20)年8月15日の終戦後、連合軍指令が矢継ぎ早に出され、文部省から愛知県内政部を経て各地域の教育関係部署に届けられていった。軍国主義や国家主義に関する図書の整理、国家神道の廃止、修身・国史・地理 の授業の停止、教職員適格審査など国政レベルにおける教育界の変化は急激なものがあった。とりわけ、1946(昭和21)年4月に発表された第一次アメ リカ教育使節団の報告書でアメリカで実施されているsocial studies (社会研究)が紹介され、CIE(連合国最高司令部民間情報教育局)の指導もあって総合教科「社会科」の新設の方針が出された。そうした中で1952(昭和 27)年前後より流行したコア・カリキュラム運動は新教育のうねりを地方レベルで安城がどう受け止めたかを知る手がかりになる。いわゆる安城プランの作成である。第1節の冒頭では、こうした地元教師による主体的な教育に注目した。
  とりわけ、学校調査等で収集した学校管理案や学校沿革史などの資料をもとに、昭和20年代後半から30年代にかけての学校を取り巻く状況説明を心がけた。安城市の学校ごとの歴史は各学校百年史などを基に再現できるが、総じて六・三制時代の教育に主体的に対応した経緯が読み取れる。戦後の教育の流れを安城市という枠組をおいて眺めてみれば、新しい教育内容、新制中学校の誕生、安城市教育委員会の発足、PTAの誕生、特別活動、社会科を中心にした地域副教材の作成、学校保健、視聴覚教育(教育工学の流行)、特殊教育、交通安全教育、安城教育研究会、教職員組合、生活科の飼育小屋整備などの動きは特筆すべきものがある。このうち、既に他の刊行物に掲載されたことのある資料は極力掲載を避け、これまでほとんど報告されなかった資料を中心に掲載した。

  次に、第2節の子どもの生活や遊びに関しては、伊勢湾台風に対する当時の子どもの感想、生活時間の実態など安城市の公的な調査結果を掲載した。 この資料から読み取れる生活実態から都市化と共に公園不足に悩む安城の子どもたちの願いや生活時間の使い方に関する傾向をみてとれる。
  また、中学生による市政への関心が座談会から読み取れる。意外にも当時の中学生たちは安城市の未来に関して実に具体的に考えている様子がうかがえる。
  外遊びを妨げる幹線道路(本市に東西に走る国道1号線や刈谷―岡崎線など)周辺における交通問題も高度経済成長期以降の安城らしい問題の一つであろう。都市化に伴う公園整備の必要度の高まりも含め、安城が次第に変貌していく様子が子どもを取り巻く社会状況の変化からも読み取れる。

  第3節では、青少年の就学・就労の実態を示す資料を掲載した。日本では、 1960年代以降中学校卒業者に占める就職者の割合は減少し、1970年代半ばには高校進学率が90%を超えるという学歴社会の浸透がみられた。離農も進み、 高校卒業後主に製造業に従事するというコースが安城の若者の就業の一般的な姿となった様子が資料からうかがえる。同時に、この時代は南九州や東北の若者が就職列車に乗って来安した時代でもあった。このような社会変化の中で、若者世代はどのような職業観をもち、社会に出ていったのか。統計調査に加え、文集などの資料も掲載して彼らの人生観や職業観に迫った。

  第4節では、青年団、青年大学などを取り上げ、若者が、働きながら地域の中でどのように学び、活動したのかを示した。青年団の戦後史は、団員の確保や活動の維持に奔走するというものであった。しかし、その苦悩の中に、 若者の生き方の模索や社会への要求が表現されている。さらに、災害の多発する近年、ボランティア活動の重要性が叫ばれているが、ここでは伊勢湾台風時における青年団の奉仕活動の様子を掲載している。
  安城市は総じて教育・文化活動に対し熱心に対応してきた自治体といえる。 それらを支えた底流には安城農林学校や青年大学、公立小中学校教師と児童生徒の熱意と努力が垣間見られる。

 
 第3章 「福祉向上の取り組み」解説

 本章では戦後安城市の社会福祉の向上を目指した取り組みに関わる資料を掲載した。古来より、ひとびとは暮らしの中に立ち現れる困難や問題を解決するために様々な取り組みをしてきた。自らなんとかしようと「自助努力」するのはもちろんのこと、親族、地域、知人同士での「互助」も大切な役割を果たしてきた。そして「自助」や「互助」を補ったり、それだけでは支えることの困難な大きな問題に対処するため、人々は社会全体のちからで社会全体の幸福を目指すべく社会福祉・社会保障の制度や取り組みを発展させてきた。安城市においても、とりわけ戦後は関係法令の整備やひとびとの人権意識の広がりと共に、社会福祉の向上を目指した官民の取り組みが進展した。

  本章第1節「くらしを支える基盤づくり」では、戦後の助け合いの組織化や生活困窮者援助、保健衛生、福祉行政に関する資料を掲載した。第2節 「子どもの福祉」では、戦中戦後の生産活動を支えた保育の一端、社会の変化とともに移り変わる子どもの問題、そしてそれに取り組む諸活動を紹介する資料を掲載した。第3節「障害者の福祉」では、障害者をとりまく当事者やボランティア、保健福祉関係者や行政、および施設の活動、そしてバリア フリーのまちづくりに向けた取り組みに関する資料を掲載した。第4節「高齢者の福祉」では、高齢化社会が進展する中で取り組まれる福祉諸サービス や活動事例に関する資料、関連機関・施設の様子、そして介護保険制度周知に向けた行政資料などを掲載した。第5節「福祉のまちづくり」では、民生委員や社会福祉協議会などの民間組織・協力機関などの活躍や、その活動の基盤となるハード・ソフトの拡充、そして住民参加の福祉活動を目指す地域福祉活動を紹介する資料を掲載した。

  社会福祉はけっしてお役所や法令によって「上から」与えられるものでなく、官民がそれぞれの役割を果たし、住民の自主的な参加を得ながら、地域の力を合わせて取り組むことが求められる。安城市においても戦後60年不断の努力が重ねられてきた。これら資料によりその努力の一端を読み取れるで あろう。

 
 第4章 「女性の役割と家族の変化」解説

 本章では、戦後、安城の女性に対して、どのような後割が期待されてきたか、また女性自身がどのように自らを意義付けてきたかを、婦人会等の活動や家族のありかたとの関わりの中で取りあげている。

  第1節「女性の地位向上に関する意見と活動」では、(1)新聞・広報における啓発記事、(2)男女青年の意見、(3)生活改善の取り組みとして女性の地位向上についての意見や、婦人会などによって進められた生活改善の活動を掲載している。一般的に、戦後日本社会については、新憲法による男女平等規定や女性の選挙権獲得などに焦点があてられ、女性の社会進出が推奨された、と理解されている。しかし一方では、女性の地位向上は婦人の本分や母親役割を通して行われるべきだという見解も多く、安城ではこの傾向が非常に強い。生活改善の取り組みにも積極的であり、生活を社会全体の問題としてとらえ、その責任者として女性の役割を意義付けようとする意識もうかがえる。

  第2節「『家庭』への期待と性役割」では、生活の分野の中でも特に家庭の責任者としての女性の位置づけが高められていることを示している。戦後日本社会では女性雇用労働者は増加したが、一方で、農家世帯の減少は労働力率の低下をもたらした。安城市の労働力率も全国平均よりは高い水準にあるものの、減少傾向をたどり、1960(昭和35)年の61.7%から1990(平成2)年には53.8%に低下した。また安城市では、特に1980年代まで家庭での役割を通して女性を意義づける傾向が根強いことがわかる。現在的感覚では、家庭から職場への進出が女性の解放である、と認識される。しかし、家長に権限が集中し、親族や親子のつながり、つきあいやしきたりを重視するイエとは異なり、家庭は日常の快適で豊かな生活、夫婦の結びつきを前提としてお り、あこがれをもって語られた。(1)「家庭」という希望、ではこうした要素によって女性が家庭を志向し、また男性の支持もあったことがわかる。ま た(2)青年による男女交際と配偶者選択についての意識、にみるように、 特に男子青年によって配偶者選択、男女交際への関心の高さが示されている。 しかしながら、自発的な自負心ばかりが女性の家庭役割を支えたわけではない。家庭は職住分離のもとで男性が貸金労働を、女性が家事を担う性別役割分業を基本としているが、こうした性役割が公の発行物や教育によって唱導されていたことを(3)固定される性役割、に示した。

  第3節「農家の結婚問題と家族形態の変遷」では、安城市の家族形態の変遷と農家の結婚問題をとりあげた。 1960年代以降、農地は工業用地や宅地として転換され、非農家人口も流入して総世帯数における農家戸数率は、1950(昭和25)年の67%から1980(昭和55)年の19%に減少した。家事育児に専念する主婦による家庭が理想化される一方で、安城市の若い女性たちは農家での農作業従事、義父母との同居や親族づきあい、嫁という立場に対する忌避観を示していく。(1)農家の嫁不足問題、に見るように、しだいに女性の離農・農家との婚姻忌避は農家にとって切実な問題となり、1980年からは農家の嫁さん探しを本格化させた。この間、(2)安城市の家族形態、に見られるように、1960年代に安城市では家庭の代表的な家族形態である核家族が急激に増加している。

  第4節「性役割規範の変化と男女共同参画社会への取り組み」では(1) 女性の役割の変化、(2)家族経営協定、として、家庭役割の担い手を問い直す傾向や、農家における女性の地位向上への新しい試みを掲載している。 全国的に、「国連婦人の10年」(1976年から)などを通して、家庭以外での女性の自己実現を希求する声や、女性のみが家事・育児・介護に従事することが問われていく。安城市でも80年代には女性が家庭だけではなく、職業でも 責任をもつことの意義が女性自身によって語られるようになる。育児の社会化、保育所の延長保育などの要望も増加し、1990年代に入ると安城市も「男女共同参画社会」への対策の一環として、この要求に応え、育児は母親だけでなく、父親や社会の責任でもあることが確認されるようになる。特に農家においては「家族経営協定」が結ばれるようになった。これは労働や収入の分配があいまいである農家構成員の労働・報酬を、家事労働を含めて明確にするもので、農林水産省などにより1995(平成7)年から推進され、男女共同参画への取り組みのひとつとなっている。

  

第Ⅲ部 日本デンマークの戦後

 

 第1章 「農業地域構造の変容」解説

 本章では第二次世界大戦後から現代までを対象に、本市の農業と農村が農地改革等にともなってどのように変化したのか、高度経済成長期における工業化にともなう本市の都市化にどのように対応して発展してきたのか、また、 バブル経済崩壊以降の経済動向や消費者指向にどのような取り組みをみせてきたのかなどについて読み取れるように資料を掲載した。

  第1節「農地改革と戦後復興期の農業・農村」では、農地改革による自作農創設をめぐる動きを中心に、当時の農業生産の状況を食料増産と供出等も 含めて示した。

  第2節「高度経済成長期以降の農業と農村」では、まず本市農業がいかなる変遷をたどったのかを示した後、当時の子どもたちの目や新聞記事からその変化の具体的な様相を捉えることとした。そこから、農村に暮らす人びとの就業構造が大きく変化するなかで、水稲作を中心とした土地利用型農業の新たな発展(集団栽培から技術信託、経営委託、さらに集落農場へ)ととも に、都市化地帯の立地を活かした園芸農業の展開もみられて、本市農業の取り組みの先進性が明らかになろう。

  第3節「バブル経済の崩壊と新たな時代の農業生産」では、バブル期に構想された集落農場構想が地域営農システムとして高く評価され、地域農業の新たな展開をもたらしている状況のほか、近年の食の安全や健康志向に本市農業がいかに取り組んできたかを読み取ることができるようにした。

 
 第2章 「まちづくりの中の日本デンマーク」解説

 本章では、戦後安城のまちづくりの歴史の中で、日本デンマークをめぐる状況の変遷が読み取れる資料を掲載した。都市計画を超える広い意味でのまちづくりにおいて、日本デンマークが戦後どのように理解され、位置付けられていったのか、日本デンマークをめぐるさまざまな暮らしの風景を読み取っていただきたい。

  第1節「田園都市計画の実態」では、戦後復興期1955年前後の安城市のかたちがわかる資料を集めた。 1952(昭和27)年5月5日に市制を施行した安城市は、 「田園都市」あるいは「農都」を掲げ、新たな発展をめざすことになった。その背景には日本デンマークの伝統があった。けれども「もはや戦後ではない」といわれた1956年ころを境に、日本経済が高度成長に突入していくとともに、田園都市安城でもしだいに商工業の発展に力が入れられるようになっていく。安城市民の心性にも相反する思いが交錯している様子を見て取ることができる。

  第2節「工業都市への変貌」では、高度成長期の工業化路線の中で、田園都市がどのように変わっていったのか、その変化のありようがわかる資料を集めた。きっかけになったのは、1960(昭和35)年のいわゆる「工場誘致条例」 である。農地転用が進み、工場新増設や宅地開発の中で、緑が減少していく。 風景が変わり、安城市民の心性、とくに時代の変化に敏感な若者たちの価値観が変わっていく。そして日本デンマークの象徴でもあった明治用水が暗きょ化され、市民の視界から消えていった。こうした変貌の様子を資料から読み取っていただきたい。

  第3節「日本デンマークの現代的再生」では、工業都市へと変貌する過程で対抗的に生じてきた、日本デンマークを再生させる試みに関する資料を集めた。 1970年代以降から現代に至る時期を対象としている。いうまでもなく、多角形農業に集約される農業経営のありかたを復興させようとしたのではない。環境との共生やふるさと再生という時代の新しい息吹を日本デンマーク の伝統に投影し、その観点からの現代的再生が意図されている。したがって、 日本デンマークの意味は変容し、戦後復興期とは異なった田園都市の現代的なありかたを垣間見ることができるだろう。

 

 

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